当代柳家小せん

私のホームグラウンド(自称)、池袋演芸場の、「橘家文蔵襲名披露」には行けそうだ。
文蔵師匠についても、思うところがいろいろある。先日、「柳家喬太郎のイレブン寄席」でやっていた「転宅」も、それは素晴らしい出来であった。
だがその前に、今日は当代柳家小せん師匠について。
この師匠も同じ番組、文蔵師襲名特集で、「一目上がり」を掛けていた。

噺家さんも数多い中、ふとしたきっかけで、ひとりの噺家さんが気になりだすということはある。
若いのに枯れた人、くらいのイメージで見ていた小せん師匠、さん喬師のヒザ前を務めたのを目にして以来、私の中で存在が日々大きくなりつつある。

日本シリーズ進出を決めた日本ハムファイターズ。
ずっと見ているので語れるのだが、これはもう、二刀流大谷翔平のチームである。大谷の投打の活躍抜きにはシーズン優勝も、クライマックスシリーズ勝ち抜けもないと思う。
しかし、そんなチームにももちろん、なくてはならない引き立て役はいる。中継ぎの谷元投手であるとか。
小せん師に対しても、「引き立て役」としての敬意を払って見ていた。しかし、日々存在が大きくなってきていて、今や中継ぎエース・タイトルホルダーの宮西投手くらいの存在になってきている。
その地味さが、派手に映りだしてきている。

先に挙げた、BS11でやっていた「一目上がり」の素晴らしいこと。
何度か聴いているにもかかわらず、寝るときに聴いていて、思わず寝るのを忘れてしまうところであった。聴いてて気持ちがいいので結局寝てしまいましたが。
昔ながらのクスグリで進める淡々とした噺に、どうしてこんなに引き付けられてしまうのか。
そもそも、どうやったらこんな噺家さんがひとりできあがるのだろう、と考え込んでしまった。
派手な芸風の人については、もちろん漠然とではあるが、その人の成り立ちや努力の過程を想像することはできる。亡くなった橘家円蔵師などを思い浮かべてみれば。
しかし、小せん師ひとり、どのような修行で作り上げられるのだろう。

新たなギャグをたっぷりぶちこんだ古典落語も、決して嫌いではない。
ギャグを入れるか入れないかが重要なのではない。大事なことは、噺が楽しいかどうかだ。

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ギャグをさして追加することもなく、噺の本筋でもってしっかり客を引き付ける柳家小せん師。

音源が、まだそれほど多くあるわけではない。ただそのおかげで、二つ目、鈴々舎わか馬時代からのレベルの向上がわかる。
多少入っていたオリジナルギャグが、ますます少なくなっていっている。それと反比例して、ますます面白くなっている。
こういう芸の人を語るとき、得てして「いぶし銀」などと評するものだけど、あれは思考停止の言葉だと思う。なにかしら、わかりやすいレッテルを貼っておくと、理解できた気がして不安にならずに済む。
だが、小せん師を聴き続けると、そういう形容はちょっと違う気がしてくる。
この師匠、天才ではないかと思えてきた。
春風亭一之輔師のような、きらめく噺家さんを見て天才と思う人は多いだろうが、小せん師だって天才かもしれない。

ギャグを刈り込む作業、相当の勇気がなければできないはずである。
ギャグを刈り込むことで、客は余計な笑いに反応しなくてよくなり、世界観に引き込まれやすくなる。簡単にいえばそういうことだろう。
だが演者の立場では、ギャグを入れておけば、少なくとも笑いのサイン、努力しましたというしるしにはなる。それで蹴られることがあるにしても、とりあえずは安心できるのではないか。
新たなギャグがなければ、あるいはみんなが知っているクスグリしかなければ、客は予定調和的に笑うしかない、ようにも思える。本当に予定調和的に笑うしかないのなら、聴いている側は退屈する。
だがもちろん、素直な前座が、教わったとおりに喋っているのとはまるで異なる。

斯界の権威、柳家小三治師が理想としている芸と、実際の芸のありようとの間には、ズレを感じてならない。当ブログにも長々それを書いた。
しかし、小三治師の理想とする芸のあり方を、飄々と実現しているのが小せん師に思えるのである。
「飄々と」がポイント。小せん師に、威圧感はまるでない。
このあたりが、天才かもしれないと思うのだ。
まあ、「飄々と」もまた、ただのレッテル貼り、わかったような気がする言葉に過ぎないかもしれませんが。

橘家文蔵師が、威圧感たっぷりの4番打者で、入船亭扇辰師が、いなせな開幕投手だとすると、小せん師は、中継ぎエースである。
しかしこの中継ぎエース、期待されて先発すると打ち込まれ、やむなくリリーフに光明を見出しているという感じではない。
たまに球界に現れる、優勝チームを裏方としてでなく、堂々と支えているリリーフエースのイメージ。
自分の働き場所を早いうちに明確にして、そこに合わせて自分を作り替えていったイメージ。
小せん師、リリーフエースとして脚光を浴びる、その直前にいるのではないか。

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柳家小せん師匠、二ツ目「鈴々舎わか馬」時代の「妾馬」を聴く。
すでに喋りは達者である。心地いいリズムで聴かせるというタイプには映らないが、実際のところは口調の非常にいい人だ。
客が噺に引き込まれ、「演者が消えて登場人物だけが残っている」落語は理想とされる。自己主張の薄い小せん師、演者として消えやすい。
「ウケてやりたい」などの執着がなさそうな小せん師、舞台で消えるのは理想なのではないか。
いっぽう、「あの噺家さん、口調がいいね」と客が感じ入っている場合、実は演者がいつまでも、そこに残って自己主張しているわけだ。
演者が消えるためには、客が感心するポイント自体も、表面に出ていないほうがいい。

小せん師、噺の序盤を淡々と進めていき、客の笑いを待たない。
先代春風亭柳朝が、客の笑いを待たないがゆえに、笑いたい客のストレスを溜める芸だった、と誰かが書いていたのを思い出した。
小せん師に関しては、無理に笑わせる必要のないシーンを淡々と進めるので、笑えない客がストレスを感じることはない。
そして、そんな噺も楽しい。聴き手のリラックス振りがうかがい知れる。このあたりが絶妙だ。

そしてなんといっても、登場人物への視線がとても優しいのがいい。
悪役にされがちな三太夫さんにも、温かい視線を忘れていない。
ステレオタイプに描かれがちなこの人物を、「本当は温かい人柄なのだが、役目の上で厳しく八五郎に当たらざるを得ない」という造型に作り上げている。
ごく普通には、町人の対極にある三太夫、お武家の代表として四角四面に描く必然性がある。
しかしそうすると、三太夫のいる世界、傍から見ていて笑えるかもしれないが、そこに入り込みたい世界ではない。
小せん師の「妾馬」、とても気持ちのいい世界なので、聴き手はそこに入り込みたくなる。というか、いつの間にか入っている。
ギャグは濫用しないが、世界を気持ちよくするためには使う。
「お目録」を「もこもこ」と言ったり。わからないからといって「もこもこ」って略してしまうのは初耳だが、気持ちのいい響き。

主人公の八五郎にしても、いちばん簡単な描き方は、日常から遊離したハチャメチャな人物にすること。
ただでさえ教養を欠く八五郎について、聴き手の常識を裏切る描き方にすれば、客は、突き放して笑いやすい。
しかし、小せん師の八五郎、聴き手の常識から、遠くは離れない。ぼくのわたしの八っつぁんなのだ。
誰だって初めて屋敷に行くんだからわからないよね、と思うのだ。
ご老女に「おばあさん」と呼びかけて、三太夫さんにたしなめられたりしているが、当のご老女は笑っている。普通の「妾馬」には入っていない、とてもほほえましいシーン。
大事なのは、格式ではなく人としての真心。慣れないはずの状況であっても、人としての腹を存分に見せつけ、まわりを楽しませる八っつぁんに快哉を叫ばずにはいられない。

ただ、こうしてどんどん気持ちのよさを作っていくと、その反動も生まれる。
登場人物の役割を多少なりとも変えてしまうことで、物語の中の事件性が乏しくなり、結果、練られた古典落語の世界観が不安定になりかねない。
しかし、小せん師の「妾馬」の世界、微動だにしない。なぜだろう。
それは、「側室である妹にお世継ぎが生まれ、屋敷に出向く」というのが、町人にとってはすでに大変な事件だから。
この、大きな事件に振り回されるのが当然の、八五郎の行動を入念に描くことによって、物語全体としては、依然として大きなイベントを描いているからだと思う。
つくづくすごいじゃないか。

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昨日21日、池袋の橘家文蔵襲名披露初日に行ってまいりました。
文蔵師以下、落語協会の誇る豪華な顔付けの中で、引き続き柳家小せん師のことを書く。
小せん師、「黄金の大黒」を掛けていた。披露目なので、めでたい噺を選んだのだろう。そういえば、前座のかな文さんが、師匠譲りの「道灌」かと思ったら「一目上がり」で驚いた。これもめでたい噺で、先日のTVで小せん師が出していたのと同じ理由だと思う。前座もやっていい噺なのだな。

ともかく、主任の披露目を気遣ってめでたい噺を出す小せん師、そういう神経細やかな師匠を、文蔵師を差し置いてここでフィーチャーしていいものでしょうか。続き物なのでお許しください。

改めて感じたのは、小せん師、ほほえみが素敵だ。女性みたいな感想ですが、こういうのも大事だと思う。
小せん師のほほえみは、客に媚び、おもねっているのではない。客に対し、気に入ったらこちらの世界にお越しください、と誘いを掛けているふうでもない。
小せん師は、どことも対立することなく、世界を徐々に変容させていく。
笑顔に包まれているうちに、客はホンワカワールドに連れていってもらえる。

「黄金の大黒」には、いくつかギャグが入っていた。
「びんぼう長屋」と呼ばれたのは昔、今は「ギリシャ経済破綻長屋」。近隣諸国に迷惑を掛ける長屋。
「ギャグを入れない」という主義ではないようだ。ただ、ギャグで笑わせると、客も疲れるし、ホンワカワールドが乱れるから、刈り込んでいるのではないか。
噺の演出も、決して世界観を壊す方向には向かわない。「黄金の大黒」でも、羽織を交互に着て口上を述べる長屋の連中のふたり目が、周りに無理に押し出されて嫌々行くという演出は採らない。最初の口上くらい、誰だってできんだよとぬるい啖呵を切って自ら赴くのである。
落語というものの中には、スケープゴートを攻撃して、それ以外の人間が喜ぶという種類のものも確かにある。
だが、スケープゴートに感情移入してしまう人も必ずいる。
そのような構造の噺を避け、みんなが幸せな舞台を構築できるなら、それに越したことはない。そういう美学でありましょうか。

小せん師のような噺家が、どうやって作りあげられたのか。とても気になる。

小せん師の元の師匠のことは、世間の噂以上のことはなにも知らない。
新作の会に出てきたのを一度だけ聴いたことがある。よくわからない噺をしていた。
よくわからない新作というものはある。夢月亭清麿師とか、柳家喬志郎師とか、こういう人のよくわからなさは、よくわからないがゆえに結構好きだ。
小せん師の元の師匠の噺にもまた、世間にチャンネルを併せそこなっているタイプのわからなさを感じたが、聴いていてそれをよしとできなかった。
恐らく、自分の感性を世間の喜ぶ方向に作り替えることが不得手であるにもかかわらず、これでいいのだと思ってしまう人なのではないか。選択肢を、必ず間違った方向に進む人。私と似たタイプかも。
であるなら、弟子を取るには向かない人だ。
こういう師匠をしくじっても、人としては別に構わない。ただ、噺家としては致命的なことが多い。
しかし、ちゃんと大師匠に拾ってもらえてよかった。見ている人はちゃんと見ているのだ。
そしてこうした経験も、小せん師独自の落語世界観作りに、きっと役立っているのだと思う。

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さらに小せん師の音源を聴く。

これも二つ目のわか馬時代、「金明竹」。上方言葉がやたらうまくて驚く。横浜出身なのに。
異世界からやってきた使者だという記号性を重視すれば、別に上方言葉など下手でもいい。そんな演者もたくさんいる。
だが、この使者だって、本来は「わざとわからないように伝えている」人物ではないはず。そんな金明竹もたくさんあるが。
そして、言葉の気持ちよさ、メロディというものも落語の重要な要素だ。小せん師の言い立て、上方言葉本来のリズムに乗っていて、とても気持ちよく響く(多少噛んでますが)。
学生時代から音楽をやっていた小せん師、音感が非常に優れているんだと思う。
きっと、誰の落語でも耳コピでさらえるに違いない。そんな中から、現在の、誰かに似ていそうで誰にも似ていない語り口を生み出してきたのが、修行の中身というものなんだろう。

独自ギャグは少ないが、ここぞというところではぶっつける。「この丁稚どん、これ、あほだっか。どうもおかしいとおもた。目えと目えが離れすぎてまんのや」

「金明竹」の松公(= 与太郎)というのは、常識に基づいた行動をする人間ではない。常識のあちら側に追いやってしまい、マンガっぽく描いてしまうととりあえずウケやすい。
しかし、ホンワカワールドの構築に腐心する小せん師、決してそのような描き方はしない。
松公の独白、「また怒られちゃった。どうしてあのおじさんってのは、なんべんも同じこというのかね。あたいだって、いっぺん言われりゃわかるんだよ。何度も何度も言われてるうちに、しまいに何言われてるかわからなくなっちゃう」。
そうだよね、と思う。決して、馬鹿だからとあちら側に追いやったりしない。松公も、落語の聴き手と同じく、この世にぼおーと生きてる仲間なのである。
なんとなくだけど、修行時代の辛さを松公に託して、小せん師自身がこっそり呟いているのではないかという気もしますが。

小せん師を聴き込んでいくと、とにかくケレン身なくして、客を楽しませる数々のテクニックに気づいていく。
そうしたスキルに気づくのは大変楽しいことだが、演者自身が気づいて欲しがっているわけではない。
小せん師は、マクラで述べるとおり、「ぼおーと聴いていて」欲しいのだ。ここにジレンマを感じる。
でも私としては、世間から「地味だが面白い」程度の噺家さんだと思っては欲しくない。もっともっと売れていただきたいものだ。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。