転宅

橘家文蔵襲名披露、初日の演目は、十八番の「転宅」でした。
泥棒の噺は、お客の懐を取り込む縁起担ぎでめでたいとされている。そういう意味では、先の演者が泥棒ものを出してもいいわけだが、文蔵師に気を遣ってやらなかったのだろう。
文蔵師、女の出てくる噺をやる印象がないが、女が重要なこの噺を得意にしているのは面白い。
この、お菊さんのようなキャラクターも、落語には珍しい。他では花魁にいるくらいか。
肝の据わった女であり、文蔵師のニンにぴったりである。
そして文蔵師の「転宅」、またずいぶんと工夫が凝らしてある。トリッキーな改変ではなく、噺の本筋を追求していったものなので、今後スタンダード化していきそうな演出だ。

  • 泥棒がお菊に見つかってから、慌てながらなおもずいぶん長いこと飲み食いを続けたうえで、「静かにしろイ」。
  • 翌日昼の、泥棒の妄想シーンが長い。お菊との新婚生活を妄想するにとどまらず、ふたりの間に生まれた娘が小学校に上がって作文を読み上げるところまでエスカレートする。

前者は、確か桃月庵白酒師と共同開発?したのではなかっただろうか。食い意地の張った泥棒の個性がよく出ていて面白い。
後者の妄想シーンもいい。妄想こそ、古典落語の伝統にのっとったものだ。
この妄想、変にリアルで幸せに満ちていて、その後の悲劇、いや喜劇なのだが、それを思うと少々切なくなる。
よくできた噺というものは、笑いにとどまらず、喜怒哀楽あらゆる人間の感情を揺すぶるものだと思うのだが、文蔵師の「転宅」は見事にこれを実現している。

文蔵師のものをはじめとして、今日から「転宅」をシリーズで取り上げることにします。
よく聴くと不思議な噺なのだ。「穴」なのかどうなのか、ご都合主義のような部分も多々ある。
たとえば。
大変知恵の回るお菊さん、嘘だらけの話をでっちあげて伝えているのに、どうして名前だけ、本名を伝えたのだろう。
翌日、泥棒がタバコ屋で、お菊のことを尋ねるシーンのためだけに、本名を伝えているような気がしてならない。
また、お菊さんの決死の嘘、二階に柔と剣術の先生がいるという話、その場では通用したとして、翌日お菊の家の前で待っている泥棒、なぜ気づかないのだろう。
まあ、情景の見えない落語ならではの嘘、しかもいちばんのウケどころなので、アラ探しになってしまうと気が引けますが。

***

古典落語の場合は特にそうだが、聴く側は噺の内容を知っている。
そこを、初めて聴かせるように演じるのが芸というもの。
よく言われるのは、演ずる側が、次どうなるかを予定調和的にではなく、その場の腹で演じていくという高等技術。もともと噺の登場人物は、その先の展開を知らないはずなのである。
肝の据わったお菊が、間抜け泥棒を欺いている場面、客のほうはそのことを知らない体で聴けると楽しい。
だが「転宅」の場合、客にそれを気づかせずに演ずるのは、構造的に難しい。
どう考えても、忍び込んできた泥棒、しかも見るからに間抜けな奴に惚れる女などいるわけがない。そしてこの噺の場合、泥棒の間抜け振りを楽しく描けば描くほど、ますます女が惚れることなどあり得なくなる。そういう宿命を有している。
お菊の嘘で泥棒は騙せても、客までは騙せない。
そうすると客は、間抜け泥棒と、元泥棒で高橋お伝の孫だと名乗るお菊とを遠巻きに見て、自分の住んでいる世界とは違う人たちとして楽しむことになる。これは、文蔵師の得意な「夏泥」などと同じ構造だ。

泥棒の飲み食いするシーン、文蔵師の迫真の演技にも関わらず、聴いていて俺も呑みたい食いたいという気にはなかなかならない。なぜかと思っていたのだが、人の留守に上がり込んで飲み食いする奴を、客は最初から突き放して眺めているからだ。
最初から遠巻きに見ているために、その後の展開にも違和感を覚えにくいということはいえる。
泥棒が、わりと安全なところにいる「穴泥」だと、飲み食いシーンがいささか違ってくる気はするが。

だが、こういう構造の噺だからこそ、文蔵師の演出、「泥棒の妄想」が生きてくる。先の展開を知っている客だからこそ、泥棒の妄想がいかにはかないものか、しみじみ感じられる。
この泥棒、もちろん世間的にいいことはしていないが、その心情は極めてピュアである。
最初突き放して見ていた泥棒の妄想に付き合ううち、ピュアな青年の心情が聴き手に沁みてきてしまう。この純情が軽く踏みにじられる悲劇が笑いの中に内包されていて、思わず感じ入ってしまう。
前夜に、お菊につねられて「いたーい。痛くない」なんてやたらデレデレしているのも可愛らしく、また哀しいではないか。
無邪気な夢が踏みにじられるという点で、大げさだけど、スタインベックの「二十日鼠と人間」みたいな悲劇性を感じた。
噺自体よくできているし、それをさらにふくらませた文蔵師の演出、すばらしい。

それにしても、乱暴者キャラで売っている「らくだ」本人みたいな文蔵師だが、それと対照的な、この泥棒のような弱いキャラ、きっと大好きなのだろう。
自分自身の裏側にある、こうした弱い部分をよくご存じで、大事にしているのだと想像している。
こわもての外見があるからこそ、こうした繊細な部分が、噺のすみずみに活きてくる。

***

「転宅」の続きです。小ネタ集。

§

「のび太のものはオレのもの。オレのものはオレのもの」。言わずと知れたジャイアン語録。
元ネタは恐らく「転宅」のお菊のセリフだろう。「亭主のものは女房のもの。女房のものは女房のもの」。
このクスグリ自体にも、元ネタはあるかもしれない。「はだしのゲン」にも「ひとのものはわしのもの。わしのものはわしのもの」なんてセリフがあったし。
ただ、落語愛好家として知られている藤子.F.不二雄のネタ元は、「転宅」で間違いないと思う。
ちなみに、ジャイアンリサイタルは元ネタが「寝床」。
ドラえもんに分けてもらったのび太の下半身が、自意識を持ち始めて上半身に逆らうなんて話があったが、これなんかは「胴斬り」のアレンジだ。
「21エモン」にも「ゴンスケ」が出てきたりとか。

§

面白さとは裏腹に、穴の目立つ「転宅」だが、ひとつ気づいたことがある。
「なぜお菊は泥棒に本名を名乗ったのか」の謎だ。
肝の据わったお菊が、泥棒に嘘の名前を教えておいたとする。これでも噺は作れる。
泥棒が翌日タバコ屋で、
「向かいの家についてお伺いしたいんですが」
「ああ、お咲さんの家ね」
「え、お咲さん? お菊じゃねえんで?」
「お咲さんですよ」
などという展開にして、この場面で初めて泥棒の頭に?マークが浮かぶ、という演出だって可能だと思うのだ。
でも、噺の演出のためではなくて、本名を名乗る必然性があったのではないか。
冒頭に、「粋な黒塀見越しの松。いわずと知れたお妾さんの家。表札に女名前が書いてある」と噺家の地で説明が入ることがある。
なるほど、泥棒が馬鹿だから、あるいは夜だから表札を読んでいないのだ。泥棒がその気になれば帰りに名前を読んでいくこともできなくはない。
作り上げた嘘がすぐばれないように、本名を名乗る必然性があったのではないだろうか。
まあ、そのような説明までは欲しくないですが。

§

音源で聴いたことがなく速記を読んだだけだが、三遊亭圓生のものは、翌朝泥棒が訪ねた先のタバコ屋が、目の前にいるのが当の泥棒だと気づいた様子で、ニヤニヤしながらからかっているという演出だったように記憶している。
面白さの比較ではどうだかわからないが、このほうが自然な流れではあると思う。
現代のほとんどの型では、町内の人間が節穴からみんな様子をうかがっているのに、なぜか泥棒本人が来ていることがわからないという、不思議なことになっている。
まあ、穴をふさぐことを考えるのもいいですが、トントンと運んで矛盾を気づかせないことに注力したほうがいいとは思います。

***

「転宅」の聴き比べです。

聴ける古い音源で面白かったのは、三代目三遊亭小圓朝のもの。
最後の場面、タバコ屋が、目の前にいるのが泥棒本人らしいと気づくものの、まったく慌てず、騙された泥棒をなぐさめている。
悲劇と喜劇は、まったくもって表裏一体だ。

この小圓朝の噺では、泥棒の飲み食いのシーンは出だしにはない。冒頭からタバコをくわえて座敷に座っている。
旦那が置いていった50円をいただこうと、最初から強盗する気でいる。
現代の「転宅」、夢中になって飲み食いしている泥棒に、いくら肝が据わっている女とはいえ、なにもわざわざ声を掛ける必要ないじゃないかという疑問は残る。
その点、座敷に家主が入ってきてからびっくりするこの演出は自然である。
そして泥棒、忍び込んだ当日においてはそんなに間抜けな部分を見せない。このほうが、女が泥棒に惚れるとする嘘作りには自然だ。
女が泥棒だったという過去も小出しにしている。「あたしは泥棒と一緒になりたい」と言って泥棒をまごつかせてから、過去を告白している。
これは現代でも通用する騙しの見事なトリック。小さな嘘を効果的に使って、大きな嘘を呑み込ませてしまう。
こうやって、徐々に徐々に泥棒は女のペースにはまっていくのだ。
泥棒の名前は、マクラで振ってある「稲葉小僧」でなく、「田舎小僧デコ助」。女に「デコちゃん」なんてからかわれたりしている。
飲み食いも、女に勧められてから始めている。
泊っていくという泥棒に対する女の返答は、「二階にはつんぼの目付がいて、裏は警察署がある」。もちろんどちらも嘘だけど。
ただ、名前を最後まで聴こうとしなかった泥棒に、女のほうからわざわざ「お梅」だと名乗るなど、古いには古いなりに穴はある。

なるほど、噺の枝葉末節をどんどんふくらませていった結果、今の「転宅」があるのだ。
その結果、面白いが穴が多い、という作品になったことがよくわかる。
現代の「転宅」、先人が聴いたら「何から何まで笑わせすぎ」という評価ももらいそうだろうが、一応進化したのだとは思う。
ただ、昔のものも味わい深い。

***

現代の噺家から。
まず、柳家小三治師。
この師匠の噺には、何度聞いてもなかなかハマらないのだけど、スタンダードな「転宅」、聴いてて気持ちよくて結構好き。
泥棒というのは、もともと聴き手の心情に近い人間ではない。リアルな泥棒を描くことがそもそも不可能である以上、どう人物像をアレンジしても、聴き手が違和感を覚えにくい。この点、リアルな造形を作り上げようと腐心しつつ結果が伴っていない小三治師に向いた素材なのだと思う。(※ 個人の見解です)
石川五右衛門のマクラのあとに、泥棒噺の定番、「仁王」のマクラが入っているからひと昔前の音源か。
ただ、説明過剰な小三治節はこの噺でも全開だ。こういうところが肌に合わない。
忍び込んだ泥棒が、独白で家の造作をいちいち褒めていく。こういうところに演者本人が出張ってきてしまうのは悪い癖だと思う。造作が褒められるような泥棒だったら、そもそも間抜けじゃないじゃないか。
泥棒の親分の名前は、「もぐら小僧泥の助」。これ自体は多くの噺に共通だが、この名前の由来を説明してくれる。穴を掘って手を突っ込み、かんぬきを外すからだそうだ。
要は小三治師の手掛けていた「もぐら泥」と関連するのだ。
でも、「転宅」本筋と関係ない部分をわざわざ言う必要あるのか? 教師の息子だからか知らないが、説明癖が出ずにいられないんだろうと想像する。
まあ、どうでもいいところを書かずにいられない、私のブログと一緒かな。私のほうは2割くらいは刈り込んでるんですけどね・・・

素人の泡沫ブログと人間国宝を一緒にするな? へい。ごめんなさい。

泥棒噺のエキスパート、笑福亭三喬師のものは大変楽しかった。「笑福亭松喬」襲名が決まったそうでおめでとうございます。
「転宅」はもともと東京のネタで、上方に最近移植した噺だと思うのだが、背景から設定まで非常に大阪らしく作り込まれている。
場所は鰻谷の長屋。長唄・端唄等の師匠が多く、船場の旦那のお妾さんを兼ねている設定。
最初から泥棒がアホ丸出しなのも、アホの本場、大阪らしくていい。なにせマグロを盗み食いしていて、ワサビが辛くて絶叫し、女に見つかるのだから。
上方落語の場合、アホを出して賑やかにしておくと、リアリティなど関係なく、とにかく楽しくなってきて客も違和感なく世界に入ってこれる。このあたり、東西落語を比較してみるのも楽しいが、今日は先に進みます。
人物のリアリティはさして重要ではないかもしれないが、情景にはかなりのリアリティがあり、この師匠の並々ならぬ力量を感じる。
泥棒の名は「半端の忠太郎」。女が、「男前でない」「盗人」と一緒になりたいと謎を掛けると、アホの泥棒が、そんな奴手近におまっせ、とこれに乗ってしまう。
東京とほぼ同じ内容なのに、雰囲気のまるで違う噺にしていて見事だ。これだけアホらしい噺だと、悲劇要素など消し飛ぶ。聴き方も変わってくる。
タバコ屋が語る泥棒の人相は、「まゆげが太おて、頭ぴしーと角刈りにしとって、熊みたいな」。つまり三喬師本人の顔である。
ぜひとも、これから上方に流行って欲しいネタである。

***

続いて桃月庵白酒師。
間抜け泥棒が、入った途端にやることを忘れている。なにせ間抜けなので。
家の作りに感心しているが、この感心はあっさりとしていて、すぐに食い物を見つけて無我夢中で食っている。
「この世の中、酒残すバカがいるんだね」「こんな酒残すなんてな、あのジジイも長いことねえな」というセリフが笑わせる。
お菊に声を掛けられてから、慌てつつ、なおしばらく飲み食いを止めず、それから裏返った声で「静かにしろ」。
橘家文蔵師との間で意見交換があり、「お前だったら、盗み喰いしてる最中に声掛けられたらどうする」「食いますね」から生まれたのではなかったか。どこで読んだ内容か忘れてしまった。
「なんだとはなんだとはなんだ」「ようよう音羽屋」「嘘つきは泥棒の始まり」「女房のものは女房のもの」などの名クスグリを含め、演出は比較的スタンダード。
だが、お菊の相手を見つけてほしいというリクエストに、泥棒が本気で人助けに乗り出そうとするなど、随所に工夫が見られる。
白酒師の風貌も相まって、人物造型はマンガチックである。不思議な登場人物たちが遊んでいるのを、マジックミラー越しに、目の前で眺めているような感じだ。

あとは「転宅」を十八番にしているのは柳亭市馬師。磨き抜かれたスタンダードナンバー。
泥棒の名前「無右衛門」とか「仁王」とか、ありきたりのマクラでこれだけ噺を進める技術は凄い。
何度聴いても楽しいものの、一見、突出した部分のない芸である。
落語というのは、笑わせ過ぎてはいけない芸である。いけない、というと言い過ぎかもしれないが、笑わせ過ぎることによるデメリットも大きい。
大事なのは、笑わせる、あるいは人情噺で泣かせることではなくて、まずは楽しませることである。市馬師、そういう見本の芸。
しかし、じっくり聴いていると見えてくる技もある。
お菊に所帯を持ってくれと頼まれる泥棒、「ほんとかよー」と声を上げているが、この調子は妙にリアルだ。リアルに描きすぎると成立しなくなる噺なのに、なぜか。
一瞬のリアリティで、客の疑問「そんなことあるわけないよ」を泥棒が代弁し、客に替わって疑問を呑み込んで見せたのだ。すると客も、あり得ない話を一緒に呑み込むのである。
この噺の泥棒には、リアリティの薄い噺を納得する了見が求められている。人物の了見になれ、という柳家の教えに従い演じてみた、ということではないか。
信じることができるかどうかではなく、信じたことを違和感なく聴かせれば、一席の落語になるわけである。

***

「転宅」を1週間聴き続けてみた。
お菊の肝っ玉の太さには感服するけれども、辻褄の合わない部分がやはり気にはなる。
なにせ、泥棒が大声を出すとそれを制止するのである。隣に聞こえたほうがいいのに。これは、泥棒の信頼を得るための必死の演技と解すことにする。
だが冒頭、泥棒に自ら声を掛ける場面だけはやはり腑に落ちない。間抜け泥棒に気づかれないよう隣に駆け込むほうがいいわけで。
矛盾のない噺の構築については、先人の工夫に一日の長がある気がする。
あるいは、上方みたいにアホパーティにしてしまうか。こうなると、「アホ」を楽しく描いて活かせばいいのであって、細かい辻褄など問題にならなくなる。

泥棒の心情に思いを馳せるようになってから、「転宅」という噺、変化していったようだ。
橘家文蔵師の「転宅」は、泥棒への究極の感情移入の産物である。

泥棒のほうも、キャラ的にはコソ泥のようにも思うのだが、お菊が旦那を送っていった一瞬の留守に堂々と上がり込んでるので、本来やたら小心というわけでもないのだ。
そういう、(馬鹿だが)そこそこの度胸のある奴を追い返すのだからお菊はさらにすごいということになるのだが、途中で泥棒のキャラが変わってしまっているような危うさもなくはない。
ただ、お菊の色気に、泥棒が無防備になってしまったという解釈で乗り切れそうだ。そして、一番これに近いのが、橘家文蔵師のもの。
今後の演出の方向性だが、泥棒が「未来の幸せのために今日は我慢して帰る」という点を強調していくのではないかと予想する。

調べてみたら、「転宅」のCD、そもそも世にあまり出ていなくて驚いた。
理由はよくわからないが、プロ人気の高い噺ではないらしい。
「泥棒」と「お菊」との両方が得意な噺家さんというと、確かにあまりいないかもしれない。
また、矛盾点が解消しないところを見てもわかるが、どこを強調すべきか、難しい噺でもあるのだろう。
古今亭菊之丞師はやらないのかしら。柳亭左龍師などもいいと思う。
個人的には、女性の噺家に女の凄さを見せつけて欲しいですね。柳亭こみちさんなど合うのでは。
落語協会以外でイメージが合うのは、騙しのプロフェッショナル、三遊亭兼好師か。人聞き悪いですが褒め言葉です。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。