毎年恒例の新人落語大賞、結果を知らない状態で、録画を見ました。
落語でもお笑いでも、採点による賞は、自分の「好き嫌い」と「客観的評価」との区別をきちんとつけて観ないと楽しめない。
誰かに受賞して欲しいと思ってしまうと、もう評価が乱れる。そんな見方をしておいて、結果に主観丸出しで文句言うなど野暮の極み。
結果に納得がいく場合は、芸に対する「客観的評価」がまともだということだ。
そういう視点をもって楽しむことにしている。
このNHKの大賞について、個々の審査員の評価については?マークがしばしばつく。身びいきも目立つ気がする。
それでも、結果としての優勝者に大きく不満を持ったことはない。
今年の結果、桂雀太さんの優勝も、よかったと思う。桂雀三郎師匠の弟子だ。
雀太さんについては、申しわけないが今までまったく知るところがなかった。上方の噺家さんも、300人近くいるというのだから、仕方ない。
「代書」の熱演聴いているうちに、かなり好きになった。繰り返し三度聴いたのだが、聴くたび、さらに面白くなるのがいい。
ただ、同点決勝の末僅差で敗れた、春風亭昇々さんの優勝でもよかった。
昇々さんの新作「最終試験」、噺のぶっ飛んだ外観とは裏腹に、「笑点」ファンの年寄りにまできっとウケるはずだ。これはつまり、師匠の昇太師の作品と同じく、しっかり「落語」になっているということ。
ともかく、古典と新作、東京と上方、すべての「落語」を同じ土俵で公平に審査している点が改めてうかがえた。きちんとしている、権威のある賞だと思う。
「公平」というのは、個々の審査員の評価を指しているわけではない。
審査員の柳家権太楼師匠が、優勝した雀太さんに最低点をつけていてびっくりした。
権太楼師といえば、「代書屋」が十八番。雀太さんの大師匠、枝雀をリスペクトしている様子もうかがわれ、その点でなにかしら許せない点があったのだろうか。笑いの肝であるはずの「セーネンガッピ!」が意外とウケなかった部分とか。
だが上方における「代書」は、先代米團治が作ったという、米朝一門の看板。さらに、先日亡くなった三代目春團治の十八番であり、金字塔。
これらがあるがゆえ、後進が掛けるには、大変難しい噺だと思う。
雀太さんの「代書」、主人公のアホは一応既存の型を踏襲しているにせよ、アホの事象の具体的な現れようを、相当部分、一からこしらえている(らしい)点が素晴らしい。
雀三郎師に言われたとおりにやったとインタビューに答えていたが、本当にそうだとしても、師匠も本人も立派だ。
悪いけど、権太楼師匠のより面白かったかもしれない。
この賞、年々レベルが上がっている印象である。二ツ目さんも、今は落語をする機会が多く、手慣れているからだろう。
ただ、早くから活躍できている今の二ツ目さんが、権太楼師のようなベテランになったとき、落語自体、さらに面白くなっているだろうか。そうなって欲しいという期待はある。
間違いなく、変質はしているだろう。
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私は、演芸の中でもとりわけ落語を愛する者である。
ただ、純粋な「笑いのセンス」については、テレビに出ているお笑い芸人のほうがずっと上だとは思っている。競争率も落語界とは段違いに厳しいし。
ただ、プロになるだけならそれほど競争率の高くない世界で、「お笑い」とはいささか異なるエリアで修行を積むうちに、段々と噺家さんらしい味が出てくる。そういう世界が好きだ。
しかし昨今のごとく、二ツ目のレベルがどんどん上がってくるようだと、これからの噺家には、修行よりも生来のセンスが大きく問われてくる気がする。
新作落語界は、噺を作るという独創的な点において、もともとこの傾向が強い。
今回惜しくも敗退した春風亭昇々さんを見ていて感じるが、この成果が、主として修行によるものだとは思えない。
といって、師弟関係一般をただちに否定する気はない。昇々さんの落語から感じる修行の成果は、生来のセンスを無意味に刈り込んだりせず、光るポイントを伸ばしていった、昇太師匠の育成メソッドについてである。
断っておくが、ほぼ想像で書いております。しかし、大きくは外れていないと思う。柳昇師の教えが、昇太師にとってそういうものであったであろうから。
噺家さんを目指すにあたって、最初に大事なのは、「師匠を選ぶセンス」である。昔からそういわれていたが、今後ますます、誰のもとにつくか、選ぶセンスが重要になる。
「修行とは、弟子に厳しく当たることである」としか理解をしていない師匠の下について、変な苦労をしていくうちに、生来の才能をフルに活かした噺家が、どんどん出世していくに違いない。
もともとセンスなど見いだせない凡庸なスタートから、「変な苦労」が将来に活きて、落語界の必要なピースになる人も確かにいるはずだし、今後もいるだろう。
廻り道をして、年輪を重ねてから追いつく人もいるし、また今後もいるだろう。
しかしそのような成功例もあるがゆえに、厳しいだけの修行の形は、大変恐ろしいものだと思う。
昇々さんの新作落語は、世間一般でいう「お笑いの才能」に、もっとも近い要素を有している。
才能を活かして作り上げた作品が、大賞の審査の場で、「落語」として正当に評価されている事実は大変面白い。
そして、現にそうなってきているが、古典落語を主として掛ける人についても、新作と同様のスタイルで評価される方向に向かっていくはずだ。
「ギャグを入れ込むセンスと内容」がわかりやすい部分だが、それだけではない。「噺の肝を見抜く才能」「噺を再構築する才能」が大きく問われてくるに違いない。
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他の出場者について。
柳亭小痴楽さんの「浮世床」、個人的には大好きだ。
審査員の柳家権太楼師に、前後半での口調の使い分けを指導されていたが、もともと口調がいいからこそである。
ただ、噺の独創性に欠ける点、コンクール向きではなかったかもしれない。昨日も書いたように、大賞に求められる要求が高くなっているようである。
寄席で聴くには十分だけど。
こういう「立て板に水」の喋り、常に稽古していないとできないはず。
故人では古今亭志ん朝がそうであったが、こういうスタイルは、維持し続けるのが大変な芸らしい。
喋りをしくじったらそこで客に蹴られてしまうから、常に稽古が必要なのだそうだ。志ん朝も、多忙極める中、常に稽古していたそうである。
ただ、稽古をしないでいいスタイルもあり、お兄さんの先代金原亭馬生は、弟子も稽古するところを見たことがなかったらしい。
先日、「大工調べ」の啖呵でつまづいてしまった可哀そうな噺家を見た。その時点で終戦である。いちばん可哀そうなのは客だが。
小痴楽さんの、「大工調べ」「蝦蟇の油」など、聴いてみたい。
それから、春風亭ぴっかり☆さんの「湯屋番」。
彼女は実に工夫していて偉いと思う。顔の動かし方から所作も、あまり見ないかたちで、かつ綺麗。ブサイク顔をしてみせるのもいとわない。
女の高い声は不快感を招くこともあるが、彼女は聴きやすいのもいい。とはいえ、ここぞという場面でいちばん高い声を効果的に使っている。効果的に使えば、うんと高い声でも不快感はないのだ。
制限時間の中で、妄想シーンを集中して描きたいがゆえに前半をカットする仕方もうまい。
女好きの若旦那を手掛けようと思った根性も見上げたものだ。
女性が、落語の登場人物、特に男を演ずると不自然だと言われている。個人的には、まったくそうは思っていないのだけど。講談界を見ればわかる。
ともかく、なんでもチャレンジしてみるのは素晴らしいこと。
結果、女が演ずることのメリットをフルに活かし、マンガチックな造型にできた。
「湯屋番」など、もともと妄想を描いた話で、リアリティとは対極にある。マンガにできてしまえば勝ち。
そして、妄想の中の女を色っぽく描く。これで噺が飛んでいかないように錨を下す。
マイナス点としては、妄想が長すぎ、最後ダレ気味であったことか。
そして世界のナベアツ、桂三度。
いろいろ思うところがあるこの人については項を改めて続けたいと思います。