「NHK新人落語大賞」の桂三度

NHK新人落語大賞で観た、桂三度さんの落語について。敬称は「さん」でいいでしょうか。

当ブログでは、実名を出した批判はなるべく避けるようにしている。権威ある人に対しては別として。
ただの好き嫌いを正当化した牽強付会の文章ほど、ハタから見て不快なものはないから。

であるが、噺家「桂三度」について思うところがあり、止まらなくなってしまった。以下一応、建設的な批判を企図している。
止まらないと言っても、思うところはたった二点しかない。「噺の発想」と「声の使い方」について。
「虹」という今回出した噺の展開や世界観までもが悪いとは感じなかった。「色どうしが会話をする」というこのホンを、他の新作落語家が掛けてみたら、爆笑ものに進化するのではないか。
いささか唐突なサゲに、爽快感をプラスしてくれる人もきっといるだろう。
いちばん似合うのは、「コロッケ」や「銀座」「新橋」など街の了見にもなれて、語れる柳家喬太郎師。

話はいきなり飛ぶ。先日「笑点特大号」で、三度さんと同門の桂三四郎が新作落語を掛けていた。
この噺に関して言えば、つまらないという内容ではなかった。ただ、マクラというか、冒頭の挨拶に不快感を禁じえなかったのである。

ちょっと変わった落語でお付き合いいただきます。ワインセラーの中の、ワインとワインとが会話をする話です。・・・皆さん、動揺の色が隠せませんね・・・ちょっと変わった話ですから想像力をフルに活かして欲しいと思います。
(ワインが会話をしだして、客に)ここでついて来れなかったらおしまいですよ・・・

21世紀もだいぶ進んだ今ごろになって、なにを上から偉そうに言っておるのだ。笑点の客を小馬鹿にしたのかもしれないが・・・
擬人化なんてものははるか昔からあり、今日ではごく普通のもの。おでん種が会話をする柳家小ゑん師の「ぐつぐつ」なんて、アンタがおぎゃあと生まれる前から40年近くやっていて、万人にウケる演目だ。
桂三四郎、東京で活躍中と聞いていたが、スケジュールを調べてみたら東京ではもっぱら吉本の落語会に出ているようだ。その落語会のメンバーは、常に「桂三度」「月亭方正」である。

桂三度の落語を聴いてたちまち、この三四郎落語がシンクロした。
「色が会話する落語なんですよ。こんなん思いついた僕、すごいでしょ」という感の漂いようが、三四郎のそれとまったく共通していた。
別にすごくない。
噺の始まる直前、番組のアオリ方にも問題はあったけど。
自身会心の設定でも、三遊亭円丈師以降の、新作落語の積み重ねにあっさり埋没してしまうもの。審査結果としても、円丈チルドレンの昇太師の弟子、昇々さんの新作落語に敗れた格好になった。
昇々さんの演目「最終試験」、主人公のぶっ飛んだ行動が、首尾一貫している点見事だと思った。奇怪な一連の行動から、「こういう人間だからこう行動するのだ」という原理がちゃんと伝わってくる。
「ぐつぐつ」だって、おでんの鍋の中の会話、という設定の妙だけでは、とうに消滅しているに違いない。先代小さんが、弟子の小ゑん師の「ぐつぐつ」を聴いて、「情景が描けていていい」と言ったという。
アイディア一発だけでは、落語として勝負できないのだ。アイディア自慢など論外。

三度さん、円丈以降の落語について無知なのか。そんなことないと思うが、一度はお笑いの頂点を極めた身なので、独力で新作落語の頂点を極めたいと思ってはいそうだ。
思うのは結構だが、先人の偉大さを理解していなければ、一生無理でしょ。右を向いても左を向いても、先人の足跡だらけの道ばかりだ。
道を通らないで頂点に立とうとするなら飛んでいくしかないが、もしかして飛べると思ってますか?
あるいは、師匠の当代文枝師が新作落語のトップだという認識なのか。なら、なにも言うべきことはない。吉本印のついた「創作落語」界のトップを狙っていればよろしい。

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桂三度さんの落語、「声色の使い分け」についてはどうかと思う。
落語の世界で、先代三遊亭金馬を最後に声色を使い分ける噺家はいない(と思う)。
新作落語の世界でも、上方の桂小春團治師匠など、「声を使い分けないでキャラを描き分ける」ために、台本の段階から工夫をしているそうである。

落語は案外自由なもので、その自由さを満喫するのもいいが、制約を自ら受け入れ、それを乗り越えたところに素晴らしい眺望が広がっている。
三度さんの場合、「アホ声」自体がギャグの要素になってしまっているので、使い分けを止められないのだろう。だが「アホ声」以外の声の使い分けは、もっぱらキャラクター識別のために用いられ、ギャグ(の要素)になっていないのは、結構イタい。
声を使い分けることで、落語の形式を保っていた芸は制約から離れ、無秩序に突入する。「落語」から得られるメリットは放棄せざるを得ない。
ちなみに、彼が2年前のNHK新人大賞に出たときのVTRを確認してみたが、声色の使い分けはしていない。むしろ声に関しては、さすが一世を風靡した芸人という感があり、ごく普通の噺家よりもいい口調だった。
いい口調が、「声を使い分けない」という落語の制約の中で、素晴らしい響きになっていた。
2年後、アホ声を確信的に使うことで、「噺家」としての素晴らしい個性を台無しにしてしまっている気がする。
他の道で培ったスキルを落語の世界で活かせるなんて、こんなことそうそうないことなのに。ミュージカル落語の三遊亭究斗師がいるくらいではないか。

落語について考え出すと、必ず脳裏に浮かぶのが柳家喬太郎師匠。
「声色」とは違うけど、この師匠、新作落語において「声の使い分け」は結構意識的にやっている。おじいちゃんはおじいちゃんらしく、子供は子供らしく、メアリーはメアリーらしく、という。
こういうわかりやすい声の使い分けをする人、新作落語界でも意外といない。古典落語の評価の極めて高い喬太郎師の落語のスタイルが、もっとも過激に見える点は注目に値する。
この一見特異なスタイルだが、ちゃんと「落語」として聴こえてくる。
それは、声を使い分けているシーン、それ自体すべてギャグだから。声の使い分けが、「ここは笑っていい場面です」という記号になっている。
「声」の聴こえよう自体を噺の要素にした、落語史に残る「午後の保健室」という名作もありますね。
次に、喬太郎師の「ハワイの雪」や「孫帰る」などの新作人情噺において、ギャグで笑わせていた人物が、次にしんみりさせるシーンを思い浮かべてみる。
しんみりしたシーンにおいては、古典落語と同じ、声を使い分けない技法に替わっている。つまり、キャラ分けのために声を使い分けることは最初からしていないのだ。
一見過激に見えても、「演じる人物の了見になれ」という柳家の教えに大変忠実なのだともいえる。
三度さんも、こういう古典と新作のハイブリッドから生まれる、極めて高度なステージまで到達しない限り、落語界でトップを獲ることなど夢のまた夢なのだ。

先人たちを軽々乗り越える独創性があれば別だ。新たなフィールドを自力で作ってしまうことができれば、つまり新たな頂点を自分で作ってしまえるのなら、上に書いたことなどあっさり粉砕できる。
しかし、300年の歴史を塗り替えるまでの力量は、普通に考えて、ないだろう。新作も取り込んだ落語の積み重ねは、それはそれは分厚い。
現在のレベルでも、落語でじゅうぶん飯は食えるでしょうが・・・

三度にも三四郎にも必要なものは、一にも二にも、他の新作落語家との共演を増やすことだと思った次第である。せっかく東京にいても、吉本芸人でつるむのが主だったら、ガラパゴス化して、進化の袋小路に入っていくだけだ。
「この甲羅、すごいやんか。こんなんよそにないでぇ」と自慢してみても、外の世界から見たら「変な進化だね」で終わりです。
新作落語の空気も、上方落語の空気も感じられない特殊なフィールドでやっていたら、それは「落語に似ているが別のなにか」であって、そこから先に自力で進めますまい。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。