桂三度さんを批判する格好になったが、背景には彼の師匠、もとの三枝師の存在もある。
桂文枝師の弟子、ラインナップを改めて見て驚愕する。一番売れているのが、芸人上がりの三度である。その他弟子の数はやたら多いが、他に世間で売れている弟子がまったくいないではないか。
落語界において、存在意義がどうなのだ、この一門。
文枝師について、人間は嫌いではない。
上方落語協会の会長として、天満天神繁昌亭を立ち上げることなど、他の人にできただろうか。その手腕と存在感は、むしろ大いに尊敬している。スキャンダルくらいでは失わないレベルの高い敬意を依然抱いている。
それでも、落語は好きでない。この人の落語は、薄っぺらい気がする。落語独特のにおいがしない。
上方落語の抱えるアキレス腱であるが、「笑い」そのものを追求することで、結果として「笑い」そのものまで薄っぺらくなってしまうことがなくはない。
当代文枝師の師匠、先代文枝をはじめ、上方落語を復興させた「四天王」の噺には、そういう薄っぺらさはまったくなかったのに。「笑い」よりも人間を描くことに注力し、結果的に、なんともいえないおかしみを生み出している。
当代は、新作(創作落語)オンリーだからやや違うということはある。
しかし新作でも、同門の桂文珍師のほうが、古典の技術を活かして、よほど落語らしい新作を手掛けているように、個人的には思う。
ただ、柳家はん治師など、文枝新作を結構手掛けている人がいる。そういうものを聴くと、なかなか楽しい。
だから、文枝落語に足りない、落語のフレーバーを付けてやりさえすれば、落語の世界で立派な価値を持つ。プレイヤーとしてはもうひとつでも、作家としては立派なもの。
私はずっと、以上のように文枝師を捉えてきた。
聴き続けてみたこともあるのだけど、評価は変わらなかった。
You Tubeで柳家はん治師の文枝落語を探したら、「鯛」だけ見つかった。はん治師の動画自体、この演目だけだったのだけど。
早速、この「鯛」を聴いたが、非常に「落語」らしい、いい仕上がりであった。登場人物としての鯛が、落語らしくよく動いている。鯛をやるなら、柳家の噺家さんは鯛の了見になってやるのである。
設定こそ現代だが、古典落語の雰囲気すら漂う。
次に、文枝師のオリジナル「鯛」を聴いて、その「落語らしくなさ」を論評する予定でいた。
だが、あれ・・・
面白いですね! どこを切っても、しっかり落語だ。
初めて聴くわけではないのだが、改めてじっくり聞いてみたら、なんと実にいいデキだ。
文枝師、「鯛が喋る落語」であることを説明はしていたが、弟子たちのようにそれを自慢げに語ってはいない(これはあたりまえか)。
理屈で考えてみると、一昨日いい落語の例として挙げた「ぐつぐつ」と一緒だ。「鯛が料理屋のいけすの中で喋る」というのはひとつのアイディアだが、アイディアだけでは、どうがんばっても薄っぺらい噺にしかならない。
そこにちゃんと、「鯛の出逢いと別れ」「年寄りと若い者との交流」「死生観」「冒険エピソード」「スリル」などの要素をふんだんに入れ込んでいるから、噺に大きく膨らみが出ている。登場人物(人じゃないけど)を立体的に描くことにより、結果としての「笑い」も十分に回収できている。
語り口も、抑制が効いている。
はん治師に渡す以前に、文枝師の段階でちゃんと落語らしい噺になっている。
古典ぽさまではないけれど、新作落語としてはなんの問題もない。
ひとつ決定的にいいものを聴いたので、文枝落語自体へのイメージも、これひとつで劇的に変わった。
というわけで、今日はオチもないのです。
当代文枝の落語をきちんと聴く気になってきました、という結論で終わる。