落語のおもしろ要素を解析してみる(上)

お笑いの世界では、オリラジ中田が大暴れしているそうで。
炎上狙いというより、世間に対する認識が本気で間違っている様子である。
なにがかというと、世間からの共感を自らシャットアウトしてしまっていること。
中田に好意的な層が存在していることまで否定しないが、「老害松本人志なんか切って俺について来い」とアピールしても、賞レースを楽しんでいきたい普通のお笑い好きは、律儀に付き合ってくれはしない。
ファンを意図的に絞り込んでいくということは、最初から共感を寄せてくれる人間とだけ付き合うということ。
そうなると、新たな流入がなくなるので徐々にシュリンクして来ざるを得ない。ウーマンラッシュアワー村本と同じ。

その痛い中田がさらに、自分のお笑いは高度だから、高度なお笑い好きしかわからないと言い放ったそうで。
まあ、中にはだ。この発言から、自分は高度なファンだったのだと再確認している痛いファンもいるだろう。
しかしそもそも。客観的に見てみる。
現在のお笑い界、ベースのインテリジェンスが格段に高くなっている。
M-1グランプリやキングオブコントに出る最先端の笑いが高度すぎるぐらい高度なのに、さらに中田のほうが高度?
そりゃあり得ないな。一般ウケしないことを、高度と説明したところで。
昨年のキングオブコントの「コットン」なんて、インテリジェンスの高度化が止まらなくて、私も勝手な審査で点数入れているのだけどもうちょっと下に下りてこないかななんて書いたぐらい。
それでもコットンは、客のお笑い感性を引き上げることができているわけだ。

松本人志という人について、人間のすべてが好きなわけではない。
でも、笑いに関してはやはり天才だ。
いっぽう現在の中田について、好きになる要素はひとつもない。

長いマクラだが、ここから落語に思いを馳せた次第。
落語というものも、「高度な笑い」と外からは言われがちなのだ。
しかし、落語好きの私、実際に落語を訊きにいって、「ああ高度な笑いだ」と思って帰ってくることは、それほどはないな。
「高度」を感じることはちょくちょくあるけれど、「笑い」そのものについてではない気がする。
笑いの質に関しては、M-1やキングオブコントのほうがずっと高度でインテリジェンスも高い。それもいつも書いている。

自分の重要な趣味である落語こそ、最も高度な笑いと思いたくなっても無理はない。
だが、そこそこ好きな「お笑い」を、かなり好きな「落語」によって貶めるなんて、嫌だ。嘘にしかならないし。
そもそも私自身、「笑い」の観点で落語がお笑いに負けていたとして、別に屈辱に感じてはいない。
やはり落語に求めるものは、笑いもあるがそれだけではないということである。

そこまで理解しているのだが、ではなにを求めているのだろう。
まだ答えが出ていないその本質について、2〜3日掛けて解きほぐしてみたいと思います。
ヒントは、自分自身がいつも高座について書いている中にある。はず。

緊張と緩和

「緊張と緩和」論は、落語界では桂枝雀が唱えた。
落語の人も、知性を駆使して真理に到達するのである。だからお笑いの人も、この理論を受け入れている。
枝雀の「サゲの四分類」を否定したでっち定吉も、緊張と緩和論に文句は付けない。
ただ、落語の緊張と緩和を探してみても、別に大して面白くないのだった。
「面白くない」は、「ゲラゲラ笑う要素はない」という意味である。噺自体がつまらないのではないので念のため。
たとえば、「岸柳島」「庖丁」「蔵前駕籠」。

  • 雁首探しに来た
  • 魚屋に返しに行くんだ
  • もう済んだか

いずれも直前に大きな緊張を入れておいて、一気に緩和させるというもの。
でも、別に笑えない。
何度も聴いて知っているから当然なのかというと、たぶん初めて聴く人にとっても同じ。
明らかに笑いの要素が濃厚に見られるのに、大して笑えはしない。
なお、私は「落語のサゲは重要でない」という理論を常日頃展開しているのであるが、これらの演目についてはサゲは比較的重要である。決して「落語のサゲだからつまらない」ではない。
目に見えて重要なのに、笑えるものではない。
これが落語である。
だからなんなのさ。結論が拾えるか不安になってきた。

立場の逆転

上記3つの噺を取り上げていて、たまたま共通する笑いの要素に気づいた。
どの噺にも、「立場の逆転」が見られる。他にこの典型例が「らくだ」や「死神」「たがや」などに見られる。
うん、だんだん古典落語の、いかにもよくできている要素が目についてきた。

岸柳島には、怖い若侍が泳げないと知り(誤解)、息を潜めていた町人が逆襲するシーンがある。
庖丁は、女房を追い出すつもりでいた亭主があべこべに追い出される。
蔵前駕籠は、怖い浪士たちが知恵を使った町人に凹まされる。
これは「笑い」にストレートにつながらないけども、かなり面白い。何度聴いても面白い。
侍がいた時代の町人の立場を思い起こすとさらに。

立場の逆転は、現代のお笑い界にも普通に見られる要素だ。落語から導入したものと思う。
そして、これは「共感」という、笑いと少々質の異なる要素にもつながっていく。

続きます。

作成者: でっち定吉

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