東京かわら版柳家喬太郎ロングインタビューに思う

昨日は喬太郎師のインタビューを素材にしつつ、正座の話しか書かなかった。これは全体のごく一部に過ぎない。
インタビュー読む前にほぼ考えていた内容に、キョンキョンがちょっとだけ食い込んだだけであった。
それ以外の、噺家・喬太郎についても。

このインタビュー、なかなか難解である。
喬太郎師、なにも難しいことを語っているわけではない。むしろ、平易に、真摯に語っている。
だからこそ、伝わりづらいところもあるのだ。
たとえば「一之輔さんは俺が見上げるぐらいだから」と語る喬太郎師。
続けて、こちらも負けていられないけれども、個性があることだからあがいても仕方ないなんて語る。
喬太郎師は、本気でそう思っているというニュアンスを常に出して語っている様子だが、この発言をそのまま真に受けても仕方ない。
私がここから受けた印象は、「俺は自分のことも含めて、常にすべてを客観的に捉えたいと思っているし、いつもそうできていると自負している」という師の誇りなのであった。
「今後落ちていくならその様子を観察していたいし、悔しい感情がもし湧いてくるならそれも客観的に眺めていたい」というようにも聞こえる。
「人がどうかを把握する以前に、大事なのは自分自身についてもっと深く知ることだ」とも読める。

勘違いかもしれないが、それでもいいんじゃないでしょうか。とにかくちょっと書いてみます。

ライバル

一之輔、三三、白酒といった人は貪欲だと喬太郎師は言う。
いや、以前から言っていることだし、なんなら高座でも言っていると思う。
刺激にもなるが、時として我に返るキョンキョン。え、お前そもそもどれほどのもんだった? という。
真っ向から彼らに挑むのではなくて、自分にできることで高みを目指すのだと。
師にできることとはなにか。
師が目指すのは、落語の総合商社のようなもの。総合商社はでっち定吉のたとえであり、師の発言ではない。
かつて師はなんでもあってそこそこ旨い「ファミレス」と自己の取り組みを称していた。
ひとりの噺家に、ごく軽い前座噺からギャグたっぷりの新作、恐怖に満ちた噺に、人情噺。なんでも詰まっている。
自分では持っていない、白鳥作の連続ものみたいなものだってやってみたい。つまり、さらに広げたい。
どこかを突出させて高い評価を得るというのもごく普通の方法論だ。
だが、師はまんべんなくすべての領域をかさ上げしていきたい。部分部分で他人にちょっと負けているところがあっても、それは仕方ないし、悔しがるものでもない。
一瞬悔しくなっても、そこでストレートに戦うのは師のやり方ではない。そういうことではないかと。
トライアスロンの選手が、マラソンで本業の人に負けたところで、当たり前。トライアスリートなのに泳ぎもバイクもめちゃくちゃ速いとなれば、それでいいのでは。

新作を期待される喬太郎

インタビュアー(佐藤友美氏)も、「以前は客席に、喬太郎の新作を聴きたい」というムードが漂っていたと言う。
師もそれを受けて、何度も経験したことだと返している。
もちろん、今はもう、特に東京においてはそうでないという前提が、インタビューの双方にあるのだ。
私もこの感じは覚えている。
私の場合、やたらと寄席で喬太郎師の古典に当たっていたのでなおさら。もっともそのおかげで、師の古典のほうが好きになってしまったが。
喬太郎師には、まだ新作を期待されることがある感触もあるようだ。
だからではないが、現在ハイスピードで新作を作っているのだという。
しかし、ファンも古典か新作ぐらいのことで切り分けてちゃいけない。もっともっと、あらゆる領域に師の落語は延びているのだもの。

軽い噺

新作への期待が薄れてきても、いまだ大ネタを期待されてしまうようである。
でも喬太郎師としては、総合商社なのだ。なんでも用意しておきたい。
最近、「親子酒」や「普段の袴」が普通にできるようになったと語る。
そうあるべきなんだろう。寄席にも落語会にも、いろんな出番があるんだから。

ここを読んで嬉しくなってしまった。
先日、好楽、文珍、三三師と一緒に出た本八幡の会で、師の見事な「普段の袴」を聴いたばかり。
まさに、どんなポジションにも合わせた噺を持つ師の真骨頂であった。
だがこれだって、客をがっかりさせることもあるし、師も自覚している。だからといって、大ネタばっかりやるわけにはいかない。
がっかりする客の気持ち、でっち定吉にもわかる。でも、喬太郎師の全体像を捉えることができていれば、こういう側面も楽しめるはずなのだ。
師は語っていないが、喬太郎ファンでありたければ、古典新作、大ネタ小ネタ、喜怒哀楽あらゆるジャンルに分かれた落語のすべてについて迫っていくべきなのだろう。
最初はたまたま、見事な新作であったり、死神であったりに引っ掛かったのかもしれないが、それでは足りない。
まあ幸い、私はついていけている。

崩さないギリギリの線

老境に差し掛かってきつつあるが、古典の軽い噺が手の内に入り、新たな新作もできて意気揚々の喬太郎師。
ウルトラマンをやったり、落語を破壊する人という評価もあるところだろう。これはインタビューには出てこないが。
喬太郎師、若い人の新作にも触れて言う。殻に閉じこもってちゃいけない、なんでもやってみるべきと。
最低限のラインを踏み外さなければ。
なんでもやってみろという発言と裏腹にも思える、「最低限のライン」に思うところがある。
師は結局、落語が大好きなのだ。落語のありとあらゆるスタイルが。
落語でなくなってしまうほど踏み外したものをやりたいわけではないということだろう。なぜなら、師は落語家だから。

他にも、老境の過ごし方などいろいろ触発されたのだが、今日はこのぐらいで。
できれば東京かわら版買って、ぜひ原典に当たってください。

作成者: でっち定吉

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