CS放送「衛星劇場」、一週間無料放送があり、おかげで多くの落語をコレクションに加えることができた。
「立川談志 ザ・まくらスペシャル」という番組も録れた。
面白いことは面白いのだが、聴くと神経に障る人ではある。
落語たるもの、好き嫌いがあるのは仕方ないが、苦手な領域が少ない方がたぶん幸せだと思う。
おかげさまで、江戸落語から上方落語、新作落語から人情噺、芝居噺、怪談噺に至るまで、苦手な領域というものはない。講談だって、講談師には失礼だが落語の一部として、好んで聴く。
ただ、故人も含め、苦手な噺家がいる。否定してしまえばそれまでだが、向き合ってみようと思うのだ。
当ブログで延々と取り上げた柳家小三治師もそう。この人については、長い時間にわたって考え続けたおかげで、その一端が理解できるようになり、単なる苦手からはちょっと別扱いの地位を占めるようになった。
散々失礼なことを書いてしまったが、個人的にはよい経験となった。
残った苦手な人のひとりは、桂枝雀。生前の活躍中から理解できず困っていた。この人のことはいずれ取り上げたい。
そして立川談志である。
談志というひと、苦手ではあるが、その天才振りは随所に感じるのである。否定はできない。
理屈が立っていそうで実はまったく整合性のない話を語る小三治師に比べると、談志は、もう少し理屈が立っているように見える。
ただきっと、真に理屈の通った噺家は他にもっといたと思う。桂米朝、弟子で前述の枝雀もそうだし、ビッグネームではないけれど談志と同期の柳家つばめ。それから古今亭右朝。米朝の弟子で現役の、桂米二師匠も理屈が立つ人のようだ。
談志はたぶん、理屈よりも感性の発達した人だ。あらゆる事象を、まず感性で理解できてしまう器用な人だ。
本来は、不器用な人のほうが、ものごとを統一的に理解しようと理屈に進む。
しかし談志は、感性を理屈で説明するのが好きな人で、感性に矛盾がある以上、理屈にも矛盾が生じる。矛盾が生じると、矛盾があることを肯定してしまい、最終的には理屈を放棄する。感性だけで生きるのが似合う人だが、矛盾した理屈を操る。
上岡龍太郎みたいな、理屈で練り上げた人が心酔していたのは、今一つわからない。
で、「まくらスペシャル」である。
どう聴いたらいいのだろう。そもそも、談志ファンはどう聴いているのだろう。
落語というもの、特に昨今は「どれだけ客を気持ちよくさせてるか」に重点が置かれていると思う。その結果、「井戸の茶碗」「ねずみ」のような、「イイ噺」が幅を利かせるようにもなる。
この風潮を嘆く人もいるが、私は、これは落語本来の姿が現れているのであり、自然な傾向だと思っている。
もちろん、反動として気持ちの悪い落語があったっていい。本当に気持ち悪くするのはよくないかもしれないが、人の感情をマイナスに揺すぶることで感動をさせたっていい。「もう半分」とか、柳家喬太郎師の「赤いへや」とか。
だが談志のマクラ、気持ちよくさせてくれるでもなく、マイナスの揺すぶりとも違い、ただ神経に触る。
オリンピックの話をしている最中の、「俺、黒ん坊嫌いなんだよ」というセリフを、いったいどういう神経で聴けば気持ちよくなるのか。
さすがにピー音が入っていた。文脈で許される発言ではないわけだ。ただのヘイトスピーチに近いと思う。
そんなわけで、なかなか最後まで聴けない。
マクラに限らないが、談志を聴こうとしてなかなか聴けないのに、なぜ天才であることを知っているか。
それが、「やかん」である。亡くなったときにNHKの追悼番組で流していた14分の小品。
たまに思い出してこればかり聴いているが、毎回聴くたびに傑作だと思う。
気持ちよくもないけれど、神経に触る部分はない。
***
立川談志という人、常識にくさびを打ち込む姿勢はすごいと思う。
ただ、しばしば打ち込んでそのまま、というところがあるようだ。
最初のうちは客もびっくりして聴いている。家元だと崇め奉って、下からありがたく拝聴していれば、いつまでもびっくりしていられるかもしれない。
だが、噺の全体を俯瞰して眺めれば、「それがどうした」で終わってしまうこともある。
常識を疑う切り口は素晴らしいとして、その先になにがあるのか。
などと、人の悪口だらけのマクラ集を聴きながら思う。
しかし、談志晩年の「やかん」。この噺には、悪態などの躓いてしまうポイントが蒸留されて、純度の高いものになっている。結構楽しい。
You Tubeで聴ける「やかん」とは、テンポがだいぶ違ってスピーディ。
もちろん、純度の高いホワイトリカーのほうが本格焼酎よりも価値が高いなどということはない。本格焼酎だけあって、蒸留に耐えた風味は強めで、口当たりにはなかなかびりびりした刺激を感じる。この風味で嫌ってしまっても仕方ない味だ。
とりあえず、耐えられた。
「やかん」という噺、基本的な骨格は、「知ったかぶり」を嗤うということである。前座なら、それで十分。
ただ、「やかん」でも「千早振る」でも、知ったかぶりの先生・ご隠居には芸がある。講談を語ってしまうやかんの先生、相撲取りの物語を即興で作り上げる「千早振る」のご隠居等、一芸に秀でている。
「転失気」や「ちりとてちん」だと、知ったかぶりを騙すほうに一芸がある。
いずれにせよ、「知ったかぶりをやっつけました。めでたしめでたし」が主眼でないところに、落語の値打ちがあると思う。
「やかん」の八っつぁんは、戦闘的なモードでやってくる。最初から、「知ったかぶり」の先生を凹ませてやろうと思って立て続けに質問をするが、だいたい返り討ちに合う。
八っつぁんが頑張れば頑張るほど、先生は別の引出しから新たな材料を持ってきて、応戦する。「やかんはなぜやかんというか」という正解の引き出しもあるのだろうが、わざと開けない。
この芸を楽しむ噺である。
このやりとりを進化させると、八っつぁんの質問に、先生(談志では「ご隠居」)が質問自体の成り立っている土台を裏返してしまうという大技に突入する。
談志の「やかん」はそんな芸である。談志の言う「イリュージョン」とは、これが正体だと、とりあえず思って先に進む。
「一番大きな動物なんだか知ってますか」
「象だよ」
「象より大きなのがいるんですよ」
「知ってるよ。大きな象だ」
「それよりもっと大きなのは」
「もっと大きな象」
「・・・鯨ですよ」
「鯨は魚じゃねえか」
「哺乳類ですよ」
「哺乳類だかなんだか知らないけど、あれは魚だ。漁業で扱ってるんだから」
八っつぁん(名前は出てこないけど便宜上)も、ご隠居を凹ませようとするには力が足りない。
よく考えたら、「動物」(≠植物)のくくりで尋ねているのだから、「鯨」が漁業で扱っているかどうかは無関係に、「鯨」が一番大きな「動物」で、本当は正解である。
次に、がんもどきの裏表、たどんの上下を訊いて、「上品」を訊き、雨を訊く。
「努力とは馬鹿に恵えた夢である」などの名言を多数残した談志だが、そのデンでもって、「上品」についてのやり取りが入っている。
「上品てのはなんです」
「欲望に対する動作がスローモーなだけ」
***
談志の「やかん」、文字に起こしてみるとなかなか伝わらないのだが、とにかくテンポの絶妙な一席である。
「スピーディ」とか「間がいい」などという言葉で片づけられないところに天才を感じる。
根問は次に「地球」について。
「地球っていうのは丸いんですかね」
「丸かったら下の人間落っこっちゃうじゃねえか」
「人間は引力があるから立ってるんですよ」
「バカじゃねえか。人間は意思があるから立ってるんだよ。意思があったって立たないことがあるくらいだ」
下ネタは「言いたいから言ってみた」感じ。
「意思があるから立つ」はなかなか斬新な切り返しだが、よく考えたら典型的な落語のギャグに準じている。質問の前提を曲解し、別の体系に載せてしまうという。
「師匠、お餅はどうしてカビが生えるんでしょうね」
「ばかやろ。早く食わねえからだ」
(林家木久扇「彦六伝」)
「今おまえ、どこにいてんねや」
「あんたの前に座ってまんがな」
「どこへ尻を落ち着けてんねや」
「座布団の上に尻を落ち着けてます」
(桂吉朝「鷺とり」)
「いったいどこで呑んだの」
「くち」
(三遊亭歌之介「B型人間」)
など、古今東西のクスグリとも深い親和性がある。
この点、談志も古典落語の継承者なのだとみるか、イリュージョンといっても、まるっきり新しいことじゃないんだなとつぶやくか。
「海は何で広いんですか」
「狭いと池と間違えちゃうから」
「湖と沼はどう違うんですか」
「気持ちいいのが湖で、気持ち悪いのが沼。ブルーコメッツがいるのが湖で、水木しげるがいるのが沼」
このあたりから、描写は一切されないものの、八っつぁんはだんだん楽しくなるらしい。
ご隠居を凹ますより、ご隠居の見事なゴールを見るためのパス出しに方向転換する。
いみじくも、八っつぁんが噺の途中で言うのだ。
「かみしも、違ってきてませんか」
「いいんだ。全部俺の分身だと思って聴けばいいんだ」
蒸留で消えなかった毒が若干ある。これはさすがにどうだろうかと思う。
「段々レベルが観客に合ってきましたね。馬鹿にしてませんか」
「あたりまえだ。軽蔑しなきゃやってられるか」
お客様は神様ですとは思わないし、客いじりも意味があればいいけど、なんの意味があるのか。
TV収録のための客で、談志ファンでないのでこういう部分には引いている。談志の教徒だったら、こう言われて喜ぶのだろう。ちょっと気持ち悪い。
客いじりだけを真似する噺家もいると思うが、まあ、やめておいたほうがいい。
当ブログでも褒めたことがある、今売り出し中の二ツ目さん、挨拶でやたら客に毒づく。なんのメリットもないと思う。やめた方がいいのになあ。
(2023年5月24日追記:売り出し中の二ツ目さんは、桂宮治師のことです)
柳家喬太郎師(このブログでは、方向性を確認すべきときに常に登場するのだ)の、客席に対する「・・・怒ってますか?」という問いかけは、このあたりのアンチテーゼとして生まれたに違いないと思っている。
やりたいことをやる、という点ではなんら変わらないのだけど。
話がそれた。
お定まりの魚の名称の由来に進む。
「ブリはブリブリしてるからブリ!」というご隠居に、ノッてきた八っつぁんが合わせる。
「サバはサバサバしてるからサバ」「アジは味がいいからアジ」などと自ら発言し、ご隠居に「分かってきたな」と褒められている。
こうなると、もう対立構造などどこかに消え去ってしまい、客も八っつぁんも、ご隠居の芸をたっぷり楽しんだ。
「やかん」の講談のくだりは味消しになりかねないので、「ウナギ」の「かば焼き」の説明をして途中でおしまいとなる。
こういう噺が、他にも談志にあるようならば喜んで聴きたいと思います。