三遊亭白鳥師匠。
何度か当ブログでは書いているのだが、この人こそ「落語」を次世代につないでいく立役者である。「新作落語」にとどまらず「落語」全体を。
「新作落語」も「古典落語」も、その世界観は共通である。
ジャズでいう、オリジナルかスタンダードかの違いだけだ。春風亭一之輔師のように、スタンダードを魅惑のアレンジでもって、しかしジャズとして聴かせるプレイヤーもいる。
三遊亭円丈師以降の新作落語家は、落語の領域を広げるため格闘してきた。もちろんその努力があっての上ではあるが、最終的にもっとも成功を収めたのは、古典落語と共通の下敷きのある領域においてだと思う。
これは、新作が古典落語の焼き直しに過ぎない、ということを意味するのではない。新作落語の進化とは、「落語」の普遍的な性質をあぶり出したことだと思うのである。
白鳥師の「マキシム・ド・のん兵衛」は、五明楼玉の輔師が持ちネタにしていたりして、普遍的なネタに進化している。
「オウム返し」が笑いを呼ぶこの噺、古典落語「青菜」の焼き直しという評価もできる。だが、単純にそう言われないところに新作落語としてのオリジナリティがちゃんとあり、落語としての普遍性がある。
落語界の異端児としてキャリアをスタートさせた白鳥師、今や、落語を初めて聴く年寄りにもウケる実力の持ち主である。
「新作落語」ではなく「落語」の腕が非常に高いためである。
ご本人はマクラで「わけのわからない新作落語を聴いていただきます」と語っているが、これが落語を知らない人にもよくウケる。
いまだに白鳥落語を避けている人も世にはいるかもしれない。好き嫌い、なら仕方ないが、否定しているのだとすると、そもそも「落語」というものを理解できていないのだから気の毒ではある。
今回は、白鳥落語の中でも、特に普遍性を獲得している記念碑的演目「ナースコール」を。
聴くたびに関心するポイントがある。
- 「脳みその蝶番が外れた女」を主人公に据えた点
- 主人公の特異な行動が理に適っていて自然であること
- 「会話の楽しさ」がベースになっていること
古典落語には、「亭主を尻に敷くおかみさん」「肝の据わった花魁」などは登場するが、「八五郎」や「喜六」を女にしたようなキャラは出てこない。
最も弾けているキャラは、上方落語「洒落小町」の「がちゃがちゃのお松」。これはかなり珍しい。
女の特異なキャラが登場しないのは、落語が男の目線で作られてきた歴史によるものであって、そこに現代的な意味はない。
弾ける女も、落語の普遍的世界においては、「がちゃがちゃのお松」と同様、ちゃんと居場所を持つことができる。「ナースコール」の主人公、看護師みどりちゃんも同様。
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落語というもの、人間をきちんと描ければ面白くなる。古典落語も新作も、これはまったく一緒。
そして、登場する人間のスタイルは、落語史上、存在しているタイプである必要はない。八っつぁん熊さんタイプの人間を、新作落語に放り込むのも不自然だ。
古典落語に登場していない、ネジの外れたタイプの女の登場人物も、その噺の世界の中でしっかり描けていれば決して不自然な存在ではない。
真打が内定している女流噺家の柳亭こみちさん。古典落語の技術もしっかりしている人だが、かつて白鳥師が「ナースコール」を教えて掛けさせたところ、それはそれはバカウケしたという逸話がある。古典落語では得られないウケ方をしたそうだ。
女流噺家が、女性であることをハンディだと思い、古典をやめ「等身大の女性が登場する新作落語」を掛けてみるというやり方がある。でも、そんな噺がウケるかというと、必ずしもそうでもない。
落語の世界に、「等身大」の存在などそもそも必要ではないのだ。大事なのは人物をきちんと動かすこと。
次に人物の描き方。
出来の悪い新作落語にたまにあるが、登場人物の行動が不可解なことがある。噺の設定そのものの突飛さにはついていけても、行動が不可解で満足が得られないことがある。
日常に存在しない奇矯な人物であれば、常に不可解な行動が許されるか、そんなことはない。
落語に限らないだろうが、ストーリーの登場人物は、必ずなんらかの原理に基づいて行動する。作り上げた登場人物だからといって、しっかり動かすためにはその行動原理が必要である。
「ナースコール」の主人公みどりちゃんは、常識の視点からは到底考えられない行動に出る。看護師なのに、患者を手術したい願望を持っていて、かっぱ橋で「マイ・メス」を作ってもらっている。
この非常識な行動が笑いを生む。
しかし、その行動を予測できないのは、他の登場人物と観客であって、みどりちゃん本人としては原理に基づいた行動をしているだけなのだ。
患者を「捌きたい」願望を持ちつつ、白衣の天使として献身的に患者の世話をするという、行動原理が矛盾せず同居しているところがすごい。
マイ・メスの出番が来て、みどりちゃん、これを使おうとするわけだが、これは彼女としては「患者の危機を救う」ためなのだ。
みどりちゃんにひどい目に遭うおじいちゃん患者のほうは、行動原理がまだ日常の理解の範疇にある。しかし、看護師に対し「パンツを見せろ」というセクハラ行為、これだって噺の中で唐突に提示されたら客は引くだろう。
「看護師さんに訊くと、いちばん嫌な患者はセクハラじいさん」であるというマクラ、先輩との会話から、ちゃんと患者がセクハラをすることを仕込んでおいて、無理のない展開を作っている。
「ナースコール」名作なので、映像もいくつか持っている。
最近では、「BS笑点」で流していたものが完成系でいい出来。笑点の客にもウケるんですね、これが。白鳥師、やっていることは過激に見えるが、落語の完成度が高いから、誰にでもウケる。
師の円丈師が、先代円楽のことを著書「ご乱心」でボロクソに書いたため、弟子も「笑点」からはお呼びが掛からなかったと聞くが、時代は変わったのだろう。
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- 弾ける女が主役
- 人物の行動に無理がない
新作落語「ナースコール」のこういった特徴を見てきた。さらに3つ目。
- 会話の楽しさ
白鳥落語には、古典落語と同種の、登場人物の楽しい会話が溢れている。この点は、大変興味深い。
師匠の円丈師は、古典落語の技術を身に着けておいたうえで、新作落語をどんどん先鋭化していった。
一方、落語を知らずに入門し、最初から新作を手掛けていた白鳥師が、師匠と異なる領域である、古典と共通の領域で活躍しているのは面白いことだと思う。
楽屋に来た志ん朝の顔を知らず、「春團治師匠ですか」と言った逸話を持つ白鳥師。落語の世界を脇から眺めつつ、その世界から優れた点だけ取り入れていったのかと思う。
「ナースコール」は、ぶっ飛び看護師みどりちゃんについて、忙しい先輩たちが嘆いている場面から始まる。
そこに居眠りから起こされたみどりちゃんが混ざってくる。みどりちゃんは先輩たちに叱られ続けているが、それにしては会話が平和である。
先輩たちは、みどりちゃんのボケを引き立たせるために突っ込んでいく。ご隠居さんと八っつぁんの会話を思わせるではないか。
ナースコールが鳴り、セクハラ爺さんだから行かなくていいという先輩を尻目に、志願して病室に出向くみどりちゃん。
ここから、爺さんとの会話がやはり、一見対立するように見え円滑に進んでいく。みどりちゃんは、マジメに仕事をしているのだが、会話がすべてボケである。
特にこのあたりが、初めて落語を聴くような人にもよくウケると思う。
常にボケているみどりちゃん、そのボケ振りで患者を危機に陥れるのだが、ボケ倒して助けも呼べなくなってしまう。
そこで「白衣の天使」としての行動に出る。といっても、失敗続きの人間が最後だけ輝く、という人情噺的なオチではなく、最後までボケっぱなし。
マクラや冒頭の会話の仕込みを綺麗に回収し、きちんとサゲを言っておしまい。
白鳥落語は、とにかくサゲを付けて終わるのである。寄席ではきちんとしたサゲでなく「冗談言っちゃいけねえ」、の冗談落ちが幅を利かせているのであるが、白鳥落語には必ずサゲがついている。
といって、サゲに特色があるような噺はほとんどない。ほぼ「噺はここで終わりです」というアナウンス代わりの軽いサゲだ。
客の安心のため意図的にそうしているのだそうだ。
白鳥落語のこういう気遣いが、他の演者でも手掛けやすい理由だろう。円丈師の落語だと、プレイヤーの中に熱烈な信者はいるが、白鳥落語ほど普遍的な存在ではない。
特異な設定か日常設定かにかかわらず、登場人物の会話の盛り上がりで噺を進める手法や、サゲを必ず付ける点などに、柳家小ゑん師との共通点を感じる。
小ゑん師の場合、柳家のフレーバーもたっぷり掛かっていて、古典落語からの強い影響がくみ取れるのであるが、白鳥師の場合はどこから影響を受けたのか。円丈師と噺そのものは似ていないので、SWAメンバーからだろうか。
といって、SWAメンバーの落語と似ているかというとそうでもない。独自に古典落語と共通の領域に行き着いたのだろうか。
ただ、笑点の客にもウケる白鳥落語にも、もう少し違う側面がある。
「砂漠のバー止まり木」のような、不条理世界を描く、師匠譲りのエッジの効いた側面もお持ちである。そういう攻めの姿勢にも期待しております。