「大工調べ」の訴訟論

お白洲ものの落語がある。
「大工調べ」「帯久」「三方一両損」「佐々木政談」「鹿政談」など。変わったところでは、もっぱら入船亭扇辰師が手掛けている「さじ加減」などという噺がある。
本来、お奉行さまがいちいち訴訟を指揮するわけではなく、吟味方与力が裁判長を務めるわけだが、それだと落語にならない。

お白洲といっても、現代と同様、民事訴訟(出入筋)と刑事訴訟(吟味筋)がある。
「大工調べ」「三方一両損」「さじ加減」は、純粋な民事裁判であり、「帯久」「鹿政談」は刑事裁判である。
裁判というと、現代でもこの二種類をごっちゃにする人が多いのだが、昔から明確に区分されているものだ。
とはいえ、「帯久」などよく聴いてみると不思議な噺で、「火付」を発端とした刑事訴訟なのだが、民事訴訟の要素が強い。
お奉行が、半ば無理やり民事上の不当利得返還を命じ、これで刑事裁判(放火に基づく死罪)の是非を決定してしまおうという、いささか無理筋の話。もっとも、お奉行の権限として、そのようなことはできなかったのかというと、絶対そうともいえないところがある。

「帯久」に比べると、「大工調べ」における裁判の構造はもう少しシンプルで理にかなっている。
「大工調べ」、ほとんど「上」、つまり棟梁の啖呵で終わってしまうのだが、お白洲の場面である「下」も非常に面白い。啖呵でスカっとさせるのもいいのだが、もう少し続けて裁判でスカッとさせて欲しい。
「大工調べ」における裁判は、「道具箱」の動産返還請求である。ただ、それだけであれば裁判に訴えるまでのことはない。公権力を背景にしたなにかを、棟梁は狙っている。

あまり、「下」の音源がないが、橘家圓太郎師と、三遊亭兼好師の「大工調べ」を聴く。
啖呵で大盛り上がりのあと、実に自然にお白洲のシーンに入っていく。
棟梁の政五郎は「駆っ込み」をする。奉行所にいきなり赴いて「恐れながら申し上げます」と訴訟を提起するのである。
町人たるもの、大家から町役人を通して訴訟提起をしなければならないのがルール。だが、大家が相手であればそのような手段はもともと取れない。
大家が相手でなくても、何らかの利害関係にあったり、訴訟が非常識であったりして、大家が取り次いでくれない場合もある。
だから「駆っ込み」。これは現実にもあった訴訟提起の手段である。

まずお奉行は、大家に向かって「800文はあたぼう」と悪態をついた与太郎をとがめ、速やかに残りのこれを支払うよう命じる。
ストーリー展開としては、お奉行が、公権力を背景に与太郎に支払いを命じるように映る。
だが、描写はされないものの、被告である大家からも「800文を速やかに支払え」という請求が出ているのだろう。そうしないと、純然たる民事訴訟としては理解ができない。
ただ、この800文は店賃の一部であり、当然支払わなければならないものである。大家はぬか喜びしているが、これは公権力から解放されて喜んでいるだけであり、勝利でもなんでもない。現に道具箱は返ってくるのだから、与太郎側の勝ちともいえる。

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お白洲の噺というと「五貫裁き」もある。
この噺も不思議なところがある。徳力屋に傷を負わされた八五郎が訴えを提起するのだが、これが刑事訴訟(吟味筋)なのか民事訴訟(出入筋)なのかよくわからない。
徳力屋の傷害行為について刑事告訴して受理されたのか(現代では被害者が「原告」になることはない)、傷害行為に対する民事上の損害賠償請求をしたのかが、まったく不明確だ。
落語を聴く現代人も、民事訴訟と刑事訴訟の区別がついていないことが多いことを物語る噺だ。
さらに原告八五郎、訴訟の場において五貫文の罰金を申し付けられている。訴訟に関係ないはずの行政罰まで課しているのである。そして肝心の訴訟本体はうやむや。
罰金こそ噺の肝なのだが、訴訟の造型は、江戸基準で見てもたぶんめちゃくちゃだと思う。
このことが、噺の価値を損なうものでないことはお断りしておきます。「帯久」ともども、私は好きなのだ。

さて、「大工調べ」を「民事訴訟」の側面から眺めてみている。

「大工調べ」のお奉行さま、言わずと知れた「大岡裁き」の大岡越前守である。
奉行、いったん、店賃の残り800文と引き換えに道具箱を返却させる裁きを下す。これで誰もが終結と思う。
原告側代理人、棟梁の政五郎も、そう思わざるを得ない。道具箱は取り返せたが、因業大家に一泡吹かせる目論見は頓挫したかに思える。
その次が、この噺における法律解釈の肝である。
お奉行は、ついでのように大家に訊く。「質株は所持しておるか」と。
大家は目をシロクロ。そんなものを持っていれば質屋をやっている。当然質株など持っていない。
つまり大家は、無許可でもって与太郎の道具箱を質草に取っていたのだ。
合法的な質権設定であれば、1両2分と800の滞納家賃全額を支払わないうち、道具箱を返さないのは合法だ。しかし、質権設定の前提が狂うとなると、道具箱を返さない大家の行為は、たちまち民事上違法となる。
となると、大家は与太郎が道具箱を持たないがゆえに手間賃を受けられなかった期間について、補償する義務が生じる。交通事故の被害者が働けなくなった期間につき、加害者に休業補償の義務があるのと一緒。
これは決して唐突なお裁きではなく、物の道理に基づく自然な解釈である。

ただ、現代の訴訟の道理でこの裁きを理解しようとするなら、棟梁がこのからくりに気づいていて、「違法な質入れにより与太郎の就労を妨げた期間の手間賃を補償せよ」という訴えをあらかじめ起こしておかないとならない。訴えのない部分について、裁判長がこれを取り込んだ判決を下すことはできないのである。
さすがの棟梁も、ここまでは気づいていなかった。
だが時代は江戸。お奉行さまは公権力(刑事的強制力)をもって、訴えのない部分について判断し、強制することは一応許される。
お奉行さまお見事、というほかはない。

ただ、お奉行にも、このような判断をするに至ったには理由がある。
奉行がとがめたのは、大家の「権利濫用」だと思うのである。現代においては極めて重要な法理で、民法第1条第3項にも明記されている。簡単にいえば「やりすぎ」。
1両2分のそこそこ大金の支払を受けたにもかかわらず、残りわずかの800文について意固地になって、道具箱を返さず与太郎に仕事をさせない大家。
これは因業であるにとどまらず、人の経済活動を必要以上に阻害する行為であって、社会の害悪だ。
権利があったとしても許しがたい大家の行為、そしてそもそも権利を持っていなかった。
社会に害悪のある大家の行為をとがめ、結果として与太郎の逸失利益を補償させる解釈は、ここからは容易に導ける。

***

「大工調べ」、実は大家が気の毒なのではないかという見方がある。もとは志ん生から出たものらしい。
店賃を支払わないほうが悪い。滞納分を全額持ってこないくせに偉そうにしている。そこで大家が意地を通しただけで、ボロクソに罵られてお白洲にまで引き出される、という捉え方。
春風亭百栄師の新作落語「マザコン調べ」は、この点に着目し、喧嘩を吹っ掛けるほうが非常識極まりないというストーリーに変えている。

だが前回述べたごとく、この大家の行動は、法の一般原則に反している。合理性よりも主観的な嫌がらせの方を優先する手合いなのだ。
こんなのに同情すると、噺の骨格が揺るいでしまう。
「マザコン調べ」は面白いですけどね。

それにしても「大工調べ」の大家、因業というにとどまらず、馬鹿である。
それはまあ、与太郎に、あたぼうだの御の字だの言われて面白いわけはなかろう。尻押しが棟梁の政五郎であることもお見通しだし。
しかし、「大家と言えば親も同然」という道理、江戸時代においては社会システムとして重要なこの道理を脇に無理やり置いといたとしても、やはり馬鹿である。大家の仕事を店賃収入を得る商売だと考えるのなら、店子の収入を安定させるすべを阻害するなんてのは愚の骨頂である。
大工の生命である道具箱を返さないということで、大家はいっときのプライドは維持することはできる。だが、そんな了見は世間には通らない。

「大工調べ」にはそんな背景がある。
だが、そんな背景を重々承知の上で、大団円に見える大岡裁き、法律論的に問題はないか。

道具箱のない与太郎、棟梁の啖呵の翌日から始まっているはずの、番町の現場には入れなかったのであろうか?
もし与太郎が手間賃をもらって、現場の片付けなど手伝いをしていたとする。もしそうだとすると、このことを黙っていて、労働した分について二重に支払いを受けるのは不正行為である。
現代の法律論だと、詐欺罪成立。
本来の手間賃に届かなかったので、差額を受けるというならアリだが。
さらに、奉行に問われて棟梁が申し上げる、大工の一日分の手間賃、不当に高いと思われる。なにせ10日間で、四両または五両の計算になるのである。
仕事に出ていれば大名暮らしができるという大工ではあるが、それだけ稼げるのなら、そもそも一両二分も店賃溜めないのではないか。

大家が違法な行為を働いているのは確かだ。だが、それによって生じた損害につき補償が済めば、法律論としてはそれでおしまいなのである。
被害から、損失補填を大きく膨らませようというのはヤクザの発想。

ただ奉行、裁きにあたって事件の背景、大家の因業ぶりなど、身辺調査は済ませている。背景を十分わきまえつつ、大家から与太郎に支払いをさせているようだ。なにせ棟梁に、「儲かったの」とわざわざ声を掛けているのだ。儲かったらいけないのだが。
そうすると公権力の不当な行使で、奉行が不正の片棒担ぎをしているのではないかとも映る。現代だと、特別公務員職権濫用罪が成立しかねない。
このことをどう考えるか。とはいえ与太郎側がハッピーエンドにならないと噺は終わらない。

もっともすっきりする解決策は、無権利で質権を設定したことにつき、行政罰である過料を大家に与えること。
そして、無権利の質権実行につき、与太郎に謝罪の意味で金一封を支払うこと。
過料に替えて、謝罪金を支払え、とお奉行が命じるのでもいい。
既存の「大工調べ」では、「お仕置き」と「民事訴訟上の勝訴」とを、お上の意向の下で根拠をぐちゃぐちゃにしたまま解決してしまっているのだ。

まあ、この部分を解決するためストーリーを手直しする噺家さんはいないでしょうなあ。
私も、こんな結論が出るとは思いませんでした。

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「大工調べ」について、いったん完結したのですが、考え出すといろいろ出てきます。とりとめもなく書き連ねていきます。

どんな噺でもそうだが、聴くたびに発見があるものだ。
ちなみに、志ん生、志ん朝の親子二代、「大工調べ」通しがYou Tubeに出ていたのでそちらも併せて参照します。

噺の冒頭で、棟梁が与太郎に話している。
大家が道具箱を持っていったことについて、「言いづくでも取れる」が、相手が悪いと。
このあと、結局尻をまくって棟梁たちは「駆っ込み」に出る。つまり、結局「言いづく」を実行することにしたのだ。
「言いづく」の中身とはなにか。これが動産引渡請求である。
棟梁の心中は、「そもそも店賃のカタに道具箱を持っていくのがおかしい」である。だから、棟梁のしたためた願書に書いてある内容は「老母を養い難し」ということであり、反対給付(店賃の不足の支払)については触れていないと思う。
ヘラヘラしている与太郎はさておき、棟梁がたかだか800文の支払を命じられて悔しがっているのは、こういうことなのである。棟梁は、「大家が道具箱を持っていったこと」自体を、お白洲で咎めて欲しかったのだ。

知恵の回る棟梁政五郎、もうワンステップの気づきがあれば、願書に「家主源六、質株持たずして店子の道具箱を預かり」としたためて、冒頭から大家を凹ませることができただろう。
噺の展開上、一度大家のほうを安心させないわけにはいかないのだけど。

志ん生、志ん朝の音源を聴くと、大家は無権利による質権実行について、与太郎に対する「過料の支払」を申し付けられている。
だが、「過料」とは本来、行政に対して支払うものである。江戸時代でも、相手方に支払う「過料」はないのではないか。たぶん、この部分は言葉の使い方が間違っている。
すでに述べたように与太郎への支払は、労働ができなかった分についての損失補償ということで理屈づけられる。「過料」という概念を持ち出す必要はないのである。
行政に支払う「過料」に替えて、与太郎に詫びをする、ならいいのだが。

「大工調べ」の「下」。「大工は棟梁、調べを御覧じろ」というサゲがいまひとつしっくり来ないのが難点である。
でも啖呵で大いに盛り上げたあと、残り10分弱で楽しい「下」までやれるのだ。もっと掛けていただきたい。
三遊亭兼好師は、サゲについてはあまり手を掛けず、「細工は流々調べをご覧じろ」と落としている。別にサゲなんてなんでもいいので。気持ちのいい噺なら特に。

ちなみに、法律論で面白い噺は、「さじ加減」。
この噺も大岡裁きであるが、大工の手間賃と似たレトリックを使って弱い者を助けている。「さじ加減」においては、医者の薬代。「大工調べ」と同様、このお代を言い値でお奉行が認定して、悪者のほうに巨額の反対給付を命じている。
法律論から見て面白いのは、現代の概念でいう「事務管理」を扱っているところである。メジャーな噺ならば、当ブログで取り上げてみたいのですが。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。