<立川志らく「弟子降格」批判では見えない本質>を批判する(下)

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ラリー遠田氏の理屈でいうと、「師弟関係は恋愛関係」ということである。
よく使いがちなたとえだが、本当にそうなのか?
恋愛関係だったらそもそも、人として対等なはずなんですがね。
たとえ話をするのはいいが、根本的な前提が間違っている。
百歩譲って恋愛関係だとしましょうや。その恋愛関係に権力が持ち込まれているのが今回起きていること。それをよしとできる理屈はどこにある?
デートDVに悩まされる女性に対して、「いやあ、この程度ではまだまだ問題ないよ」って声を掛けるのと一緒なんだけど? あなた、桶川市を管轄する上尾警察のかた?
対等なはずのカップル関係に暴力を持ち込んでも、ケガさえしなければいいわけ? やられたほうの気持ちは無視か?
私は、志らくの論理にはストーカー気質が含まれていると書いたが、それをラリー氏がわかりやすく側面から補強してくれている。

師弟間のゴタゴタ、対外的に釈明する必要のあるような権力的行為が現にあった。その、現にあったことを、取り巻きが「なにもなかった」「なにも起こるわけがない」って言い繕うのは卑怯じゃないでしょうか。
「私は権力を振るった。師匠だからいいのだ」という開き直りであれば、それでも非難は起きるにしても、少なくとも首尾一貫はしているのであるが。
優秀な弟子を輩出し続ける柳家花緑師は、唯一惣領弟子だけ破門をした。そのことについて、師は一切釈明はしなかった。
その時点において、師が優秀な師匠と思った人はほとんどいなかっただろう。
論より証拠。

実にわかりやすいラリー氏の論理破綻。
文章を論理的に組み立てなければならないはずの評論家が、なぜこのようにわかりやすい論理破綻に陥るのか?
それは、結論が決まっているから。
噺家の世界に対して、あまりにも(歪んだ)敬意を払いすぎていて、間違った結論に引きずられてしまうから。

弟子が師匠と袂を分かつなら、原則として噺家をやめないといけない。
そんな構造の中で、嫌なら別れればいいなんて気楽によく言えるな。
DV被害の女性なら、心理的な束縛から離れることがもし可能なら、そういう選択肢もある。それが幸せ。
噺家の場合、よそに再入門するのは簡単じゃない。落語協会は30歳まで、芸協は35歳までになった。
二ツ目の噺家には、やり直しの自由なんてない。
最初から、ひどい目に遭う弟子のほうはまったく見向きもしない。ひたすら、メディアの世界で功成り遂げた、パワハラと非難される側だけを擁護する姿勢。

お笑い周辺で仕事をしている人も、しばしばこのような隘路に陥りがち。
才能はあったが目の出ない芸人、才能もないのに売れてしまい、その後没落していく芸人を見すぎるがゆえに、体系のできている落語の世界に憧憬を抱くのではないかと私は想像する。
実際、芸人に見切りをつけて落語界に来る人も多い。
有名なのは桂三度、月亭方正だが、三遊亭とむ、笑福亭希光など、私の一押しの人もいる。

落語の世界、決してそんなに特別な世界には見えない。
落語を聴けば聴くほど、また、一人前の扱いなのに師匠次第で廃業の憂き目にも遭う二ツ目さんを聴けば聴くほど、普通の世界に見えてくる。
それに多くの噺家は、別にお笑いの世界に足を掛けて勝負しているわけでもない。基本別物。
お笑いから転向してきた人も、「笑い」にこだわっているといつまでも目が出ないだろう。

まあ結局、お笑い界で仕事をしているラリー氏、落語についてはさほど詳しくないのだろう。
それは別に恥ずべきことではないと思う。
だが、談志をスタンダードだと思い込んでいるのはそもそも論理矛盾だし、もうちょっと広く、いろいろ聴いてみたほうがいいんじゃないか。
聴いた結果、談志の異端性がより好きになるのは、それは別にいいだろう。
ただ、立川流以外にはごく普通に存在している、師匠と弟子の温かい触れ合いのことにも気付いて欲しいものだ。

作成者: でっち定吉

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