柳家蝠丸「昭和任侠伝」(上)

毎週録画している「浅草お茶の間寄席」、整理しないとどんどんたまる。
高校野球の予選が始まるとお休みになるけども。
いらないものはどんどん消していかないと管理が大変。
だが残す半分に、きらりと光る高座があるのだ。
今日はその中から、大ファンの、柳家蝠丸師を。
生の高座と、TVの高座をそれぞれ2席ずつしか聴いたことがないのに、ファンを名乗るなんておこがましい。でも大好き。

この、芸術協会所属のユニークな師匠のことを強く意識するようになったのは、それほど昔のことではない。
浅草お茶の間寄席でも、そうたびたび取り上げられているわけでもない。世間の認識もまだまだではないか。
2年前、トリの「寝床」の放映を聴いて以来だ。この寝床も、じわじわ来る快作。

最近になって、脂がのってきた師匠ではないかと思うのだ。64歳。芸歴46年。
ベテランになって急激にいい味が出てくることがあるのが、他芸と違う、落語ならでは。

噺家さんは程度の差こそあれ、誰でも客に対峙する姿勢を意識している。
高座に上がる際には、客に直接見せるキャラを、1枚被っているのが普通。
蝠丸師は、この被っているキャラがとにかくユニークで楽しい。かなり作り込んだキャラに思える。
実際師の話には、客に「笑われる」部分が皆無。この点むしろ、珍しい人かもしれない。すべてを能動的に笑わせている人だ。
だが、かなり作り込んでいるそのキャラが、だんだん素に思えてくる。もともと「こういう人」なのではないかという気がしてくるから面白い。

落語協会に比べて層が薄いとされる芸協であるが、その実なかなかキャラの立った師匠が多い。
蝠丸師と並ぶ、もう一人のキャラが立った師匠が、瀧川鯉昇師。
落語協会には決していないタイプという点でも、よく似ている。
だが鯉昇師の場合は、誰の目から見ても徹底的に作り込んだキャラである。高座に現れる、そのすべてはフィクションである。
蝠丸師の場合も、すべてを作り込んでいる点では同じようなのだが、生の現実との間がシームレスだ。

先日、芸協らくごまつりで蝠丸師の漫談を聴いた。「楽屋都市伝説」だからノンフィクションの建前。
まさに、虚々実々の世界が目の前で繰り広げられ、とても嬉しくなってしまった。
街で出逢ったお婆さんに、山川豊に間違えられる蝠丸師の姿、どこまでがノンフィクションで、どこからがフィクションなのかまったくわからない。
そもそも、アパートで一人暮らしをしている蝠丸師の姿も、どこまで本当なのだか。

そんな自在な蝠丸師は、メタ落語の第一人者。私はそう認識している。
落語の登場人物が、物語に急に穴を空け、現実の客に対して直接語りだすことがある。確立された用語でも何でもないが、メタ落語と呼んでみる。
こういう落語をやる人自体は結構いる。新作落語の人に多いが、古典派の春風亭一之輔師もよくやる。
噺の載ったステージをひっくり返してしまう荒業。客は大きく揺すぶられるので、当たると効果はでかい。
だが副作用も大きい。
噺の世界に没入している客を、現実に目覚めさせてしまうこともあるからだ。
脱線のための脱線になってしまうことだってある。

ところが蝠丸師、私の知る限りでは、唯一副作用なく、噺のステージを自由に行き来できる人だ。
こんな技がなぜ使えるのか。恐らく蝠丸師の高座には、「100%の現実」というものが最初から存在しないからだろう。そして、100%のフィクションも最初から存在しない。
虚実入り混じった空間を漂う人なので、段階を急激に飛び越えても、客を必要以上に驚かせることがないのだろう。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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