昭和任侠伝は上方発の新作落語で、先代桂春蝶が掛けていたものが有名。
蝠丸師はどなたに教わったのだろう。こういうものもお持ちとは知らなかった。
もっとも、この高座で蝠丸師が掛けているのは、きちんとストーリーを持った一席の落語ではない。
「昭和任侠伝」の一部には違いないのだが、サゲまでたどり着くどころか、ストーリーがまったく展開しないのだもの。
主人公、高倉健かぶれが、ひとり健さんの名場面を振り返っていくだけ。
ちょっと似ているのが林家木久扇師の、昭和芸能史だろうか。もっともこれは漫談だ。
蝠丸師は木久扇師と違って、まったく押さない。これがギャグですよというサインは出さず、シームレスにギャグを語りきる。
そして、漫談とは違い、あくまでもフィクションを語っている。実に不思議な、例を見ない落語。
通常、こんなネタだけで高座を成立させようとするなら、地噺として取り扱うものだと思う。
新作の地噺だと、当代三遊亭圓歌師の「龍馬伝」のように。坂本龍馬の一生を語るのかと思いきや、全然関係ないギャグを次々入れていくという。
蝠丸師のやっていることも、確かにギャグの素材としての任侠映画なのだ。一見地噺のように、地元津軽のエピソードを入れたりもする。
でも、脱線はしない。地噺のように、ギャグからストーリーに戻って、あ、落語だったのだと笑わせるような演出ではないのだ。
蝠丸師の、シームレスに噺を移動する技術だけ取り上げるなら、これは名人といっていいレベルとすら思う。
もっとも、これは私がVTRのどこかに引っかかり、何度も何度も繰り返し再生しているから思うことなのだろう。
実際の高座を客席で聴いていたら、なんだかわからないうちにたぶん一席終わっている。
そして、なにも客の記憶に残らない。楽しい思い出だけ、ふわふわと漂っているのではないか。
それこそが恐らく、蝠丸師の狙い。泡のように消えてなくなる一席。
私がしていることは、泡をすくい出して分析しようということ。野暮なのだ。
高倉健の名セリフ「死んでもらいます」を、たびたび繰り返し、ついには客に呼び掛け、客と一緒に「死んでもらいます」。
高座のすべてが冗談である。非常にふざけているようで、そうでもない。とにかく緩いが、押さえるべきところは押さえる。
「高倉健さんはキリスト教には入らないですよね」「ぶっきょうですから」
いきなり入れてくるこんなギャグ、スベリ受けみたいだが、露骨にスベっているわけでもなくて、面白くもある。もちろん、スベリ受けによくありがちなさもしさなど皆無。
高座でおこなわれているすべての言動は、すべて感度のいいファンの感情のどこかに引っ掛かる。その後すぐ忘れてしまうにせよ。
そして、マイナスの波長を一切出さない。
マイナスとは、くどさであるとか自己ツッコミの不自然さであるとか。あるいは生理的な嫌悪感であるとか。
だから、高座にどんどん貯金が貯まってくる。
最後に、時間管理をしている袖の弟子、立前座のふくびきさんのほうを向いて、「弟子がもう時間だと言ってます。あと5分あったらオチまで行けるので、お客さんがよければ続きを」と言って盛大な拍手をもらう。
弟子が駆け込んできて師匠のそばで、「ダメです」と両手を交差させる。
「まことに残念ではございますが」と一席終える蝠丸師。
この一連の、高座の枠組み自体が究極のメタフィクション。
実際にはこの噺、あと5分ではまったく終わらない内容である。
ああ、魅惑の高座が聴きたい。