<立川志らく「弟子降格」批判では見えない本質>を批判する(上)

まだ志らくの記事か!
もう飽きました? すみませんね。

3日間の記事を2セット書いて私もさすがに、もう次のネタに移ろうと思ったのです。
だが、こんな記事が出ていたので無視もできず。

立川志らく「弟子降格」批判では見えない本質

筆者、ラリー遠田という人の記事はたまに読んでいる。
過去にこの人がお笑い界について書いたものに対して、「それは違うぞ」と思ったことはない。
私も大好きな、タモリについて書いたものなど、かなり面白かった。

だが今回のは、私が散々批判した、「噺家を特別扱いしてしまう心理」を具現化した記事である。
あまりにも、私の批判した対象をわかりやすくなぞってくれていて、驚いてしまう。

少し前、「林家九蔵襲名断念問題」について長々執筆した後で、堀井憲一郎氏の記事が出たのとまったく同じ状況。
長い記事を書いたところで、私の批判した対象を逐一なぞった堀井氏の記事が出たので、再び記事を書かせてもらった
まあ堀井氏については、その後も書くものを楽しみに読ませていただいているのだけど。

今回の、ラリー遠田氏の志らく擁護の記事を要約するとこういうこと。

  • 外野から「パワハラ」とくさすのは無粋
  • 師匠と弟子という特殊な関係において、この程度はパワハラに該当しない
  • 師匠と弟子というのは恋愛関係にあるカップルのようなもの
  • 談志の一門の師弟関係がスタンダード

ツッコミどころ満載である。
タイトルの「本質」にもツッコミたくなる。TVタレント志らくを褒めることのどこにも「本質」はない。
後半の、志らくがいかに時代に即したTVタレントであるかどうかについてはどうでもいいや。
私だってそこは別に批判したりしてないし。単に興味がないためもあるが。

まず、「無粋」なんて軽々しく使っちゃいけない。
無粋は、客観的基準を背景に持たないことば。主観であることを念頭に置いて使って欲しい。
無粋は、粋でないこと。
結局ラリー氏が言っているのは、「談志の弟子だから志らくは粋だ。粋な師匠を誹謗するのは無粋だ」と言ってるだけ。
これじゃ与太郎だ。

「与太郎、お前いくつになった」
「お向かいの金ちゃんと同じだよ」
「お向かいの金ちゃんはいくつなんだい」
「人のトシは知らねえ」

無粋という決めつけは危険だ。
私が過去に当ブログで取り上げたネタでいうなら、「ダウンタウン松本の、さしこに対するセクハラ」や、「いじめによって笑いを取ろうとするカジサック」などの事例を非難する人についてもすべて、「無粋」一発で斬って捨てることが可能。
それは思考停止以外のなにものでもない。
自分の神聖に思う領域を守りたい心情は誰にでもあるだろうが、客観的な説明ぐらいは常に欲しい。
仮に、好きな領域に対する自分の論理が間違っていることに気づいたなら、最終的にはそこから離れていくしかないと思う。
理屈で生きている私は常にそう自覚している。
私が好きな落語界だって、こりゃダメだと思うことがもしあったら、そこから離れていくしかない。最初からアンタッチャブルな領域なんてない。

だいたい、「志らくはとんでもない男だ」という世間の批判を覆すためにラリー氏、記事を書いたのでしょう。
なら、具体的に志らくがセーフである理由と基準を明らかにしなきゃ。
印籠みたいに談志を出せば解決するなんてもんじゃない。だいたい、談志の異端性を褒めそやすいっぽうで、落語界のスタンダードに談志を持ってくるなんていうのは、とんだダブルスタンダード。
先日の、小泉進次郎批判も、ラリー氏がしたものではないけど、同じく談志を印籠に持ち出すやり口だ。
最も印籠にふさわしくない人だと思うが。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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