なぜハラスメント噺家「立川志らく」を世間は許してしまうのか?(下)

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志らくに仕事をもらっているタレント・ぜんじろうは「人間性を否定する言葉は一切使っていない」と志らくに肩入れしている。
筋違いも甚だしい。丁寧に説明さえしたら、寝床芝居に来ないことでキレても、正当化されるということだな。
そもそも、権力構造の中に取り込まれている人間がコメントしてどうするのだ。

世間に甘えを吐露することで、弟子育成能力の低さも自ら語ってしまっている志らく。
師匠は、弟子の育成が本業ではない。頼みもしないのに勝手にやってくるのが弟子。このことに関しては、かろうじてフィクションではない。
だが、売れっ子弟子を育てている師匠たちは、そんな構造の中で、やはり育成能力の高さを見せるのだ。
行使できる権力を安易に振りかざしたりしない点が、育成につながるのだと私は考えている。
弟子が9人のため前回のリストに載せなかった、春風亭昇太師もそう。
昇太師も、自分自身が現役で闘うプレイヤーなのに、弟子なんて邪魔な存在と言い切っている。だが師はちゃんと、昇々さんをはじめとする優秀な弟子を育て上げている。
弟子たちの、師匠に対する愛溢れるマクラを聴くたび、大笑いしながら私はいつも内心で感涙している。
そういう真の師弟愛、志らく一門にはあるのか?

修業が必要なのは弟子だけではない。師匠にだって修業が必要なのだ。にんげんだもの。
柳家さん喬師はこのところ続けて本を上梓していて、そこで優秀な弟子を育成する秘訣の一端を語っている。
もちろん、さん喬師は自慢したりなどしない。師匠・先代小さんの偉大さに少しでも近づきたいと思っているだけだと思う。
「偉そう」と言われて「ホントに偉いんだもーん」と、クソのようなジョークで開き直る志らくとはレベルが数段違う。
志らくだって小さんの孫弟子なのに。

さん喬師など、育成の見事な師匠にみられる共通点は、弟子の人間性を根本のレベルにおいてまず尊重していることである。
師弟間のけじめに厳しいさん喬師と、弟子を友達のように扱う一朝師とではまったく違うようだが、人間性を尊重する点では一緒。
これは時代が変わっても当たり前の了見だと思う。寄席芸人伝のエピソードにも通じる部分。
落語の師匠は、弟子を虫ケラとして扱うことで成長させる(べき)と思っている、アホなファンもいるかもしれない。
だがさん喬師の書物を読めば、たとえば入門当時から光る才能を持っていた一番弟子の喬太郎師(さん坊)を、いかに芽を摘まないように育てようかと考えたことが明らかにされている。
その他の弟子にも、その人間性をちゃんと見極めて、最適の育成法を心掛けていることが記されている。

志らくに圧倒的に足りないのは、この、弟子の人間性を思いやる部分だろう。
「弟子の役割は師匠を気持ちよくさせること」。
自分の師匠・談志がそう考えていたからと言って、同じことをやって弟子が育つわけではないのである。
弟子も違うし、師匠だって違う。当然師弟関係は一様ではない。
当代三遊亭円楽師など、師匠・先代圓楽の怒鳴りつけるやり方を否定し、育成方法をガラリと変えた。イメージと違うかもしれないが。
円楽師の弟子、そのおかげで結構ノビノビ、いい感じに育っていると思う。

志らくがツイッターで、批判に逐一逆襲している幼稚な姿にも、この「人間性を思いやる部分の欠如」が強く感じられる。
その姿を、人間らしくてステキと思うのはファンの勝手。だが、決して尊敬に値する人となりを持った噺家ではない。

以上の批判を志らくが読むとする。
「この意見は間違っている。私は山本容子さんやTVスタッフなど多くの人から尊敬されている。だいたい匿名で批判しているくせに」って言い出しそうだ。
本当に、そう言いそうだ。

さらに続編です。

 

作成者: でっち定吉

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2件のコメント

  1. 久々に お邪魔しました。志らく師に関する一連お記事 拝読しました。たいへん勉強になりました、感謝申し上げます。

    1. うめさん、コメントありがとうございます。

      今回の事件は、落語ファンから出ているネガティブコメントが妙に少なく、それに大きな疑問を禁じ得ません。

      重複していたコメントは削除させていただきました。
      またぜひお越しください。

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