なぜハラスメント噺家「立川志らく」を世間は許してしまうのか?(中)

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参考までに、マンガの「寄席芸人伝」のエピソードをよかったらご覧いただきたい。私のブログ内記事です。
後生楽一門 林家生楽
マンガはフィクション。「もしもこんな緩い修業の形があったら」を描いたものだが、このエピソードにはうなずける部分が多い。
なにも、マンガの通り「甘やかすのが正解」とまでは言わないものの。
このエピソードが優れているのは、既存の「修業かくあるべし」との極めて一方的な思い込みに、疑問をぶっつけた点にある。
このような新たな解釈の仕方、むしろ「着物なんて畳めなくていい」という志らくにこそふさわしい気がする。でも、自分に都合のいいところだけ「修業は厳しいもの」だとするんだな。
それは単に、師匠としての生理的な感情に過ぎない。大した理屈はない。

噺家の世界は決して神聖不可侵のものではない。当たり前の人間の世界。
当然、そこでなにをやってもいいなんてはずはないのだ。
わかりやすいたとえをひとつ。
師匠が、師弟関係を隠れ蓑にして、女の弟子を(男でもいいが)肉体的に弄んでいたとする。
そんな事例は幸い聞いたことがないのだが、万一あったとして、ファンはそれを許すか?
落語ファンでない世間の人が、これを絶対に許さないことは誰でも先刻、おわかりだろう。
しかも、師匠が弟子に、「断ったら破門だ」と迫っていたとしたら?
「お前の落語に人を感動させる力がないのは、真の快感を知らないからだ」でもいい。
前者は威力、後者は偽計によるもので、世間にしばしば見られるセクハラ以外の何ものでもない。

この架空の事件は、今回の志らくが実際におこなったことと、本質的にどう違う?
「志らく師匠は弟子に愛情があっていい」と語る人は、その「愛情」の中身についてもう一度吟味してみる必要がある。
師匠が弟子に肉体関係を迫る際の「愛情」と、その愛情は本質的に何が違うのか?
むしろ、先の記事に出したように「ストーカー」の愛情と近しいものを私は感じる。

志らく擁護派の人、違いをちゃんと説明できますか?
体を奪われる弟子と、地位を奪われる弟子との間にいかなる差がある?
違いを正当化しようとするなら、次の理屈を持ち込む必要がある。

  • 落語の世界は特殊だからそんな事例は無意味
  • 落語の世界は、弟子は全てを受け入れる覚悟で入っているのだ
  • 弟子への指導は師匠の権利。セクハラと一緒にするな

これらの理屈、成り立つ?
まあ、世の中は広いから、「女の弟子は男の師匠の弟子になる際、体ぐらい覚悟すべきだ」なんて平気な顔で言う人も、人口の2%ぐらいはいそうだが。

ケーススタディが極端と思われたかもしれないが、もし極端だと思ったならその要因をちゃんと掘り下げてみて欲しい。
弟子が意に沿わない目に遭うことではまったく一緒なのである。
セクハラもパワハラも、ハラスメントという点において、その構造は大きく変わらない。
「神聖な噺家がセクハラをすることはない」「だからパワハラもない」という思い込みがあるなら、ただの思考停止だ。

弟子に対し「文句があるなら辞めればいい」という意見は論外だ。
こう言い切っている人は会社において、かなり高い確率でセクハラまたはパワハラをしていると私は思う。定年再雇用になった後、元の部下にいびられるタイプ。
勝手な理屈を抱えたまま死んでいくのは自由。でも勝手な認識を修正できないまま被害者を増やさないで欲しい。
そして自分自身も、暴走老人として死ぬ前にやらかす可能性が大。

「一般社会なら許されないが、落語界なら許される」。繰り返すが、そんな理屈、どこにもないんだってば。
ギャグ以外でそんなことを公言している噺家も、実のところいない。
加害者が、「この世界はこんなものだ。文句あるか」と開き直るのはもう、論外。
志らくのように「パワハラではない」と自ら詭弁を述べるのも論外。
優越的な地位に基づいて相手に不利益を与える行為が、パワハラにならないって?
自分のほうがかわいそうだとかふざけたことを抜かしているが、弟子からのハラスメントはそもそも無理。地位が対等じゃないんだから。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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