久々に「寄席芸人伝」から。
もっとも数多く取り上げている第10巻からもうひとつ。
「第130話 後生楽一門 林家生楽」。
「寄席芸人伝」の各エピソードに一貫して流れるテーマは、「苦境をなんとかしようと芸を磨く芸人の奮闘」である。
だが、ふわふわとした落語の世界を扱っているだけのことはあって、真逆のテーマも平気で混ざっているところが面白いのだ。
「落語とは厳しいもの」であるという枠組みは、物語として成立させやすい。だが「寄席芸人伝」がすごいのは、そういうエピソードを扱う一方で、「落語とはそういうものだ」という言い切りはしないこと。
だから緩いエピソードもたくさんある。
「林家生楽」という師匠、弟子ふたりをとことん甘やかしている。
稽古はよその師匠のところに行かせ、雑用は一切させない。師匠が沸かした風呂に弟子が入る。
口さがない噺家連中が「生楽一門ならぬ後生楽一門だ」。
見かねた大看板、柳家小まんが生楽に楽屋の噂を伝える。生楽「後生楽一門たあ上手いこと言いますな」と動じない。
「弟子を徹底的に甘やかそうと思っている」のだ、と小まんに伝える生楽。
「なんで、こんないい弟子ふたりがあたしのようなセコ芸人のところに来たのか」。大成させてやらなくてはならない。そのためになにをすべきか考えたのだ。
生楽の時代の修業はこんなものだった。師匠が目の前でそばをたぐり、「食いてえか? 食いたかったら早く一人前になりな」。
今そんなことをさせるより、ノビノビさせたほうが弟子はきっと伸びるのだと。
そのとおり、のびやかな高座でコンクールの最優秀賞と優秀賞を独占し、楽屋をたまげさせる生楽一門。
現実の世界の師弟関係を見ていてつくづく思うのだが、厳しい師匠のところでは、意外と弟子が育たない。
先日の「プロフェッショナル仕事の流儀」春風亭一之輔師の回でも、「師匠のところでの修業の辛いエピソード」という、いかにもお茶の間に喜ばれそうな内容は一切取り上げられなかった。
あの一門は、無意味に辛い修業などさせないのだと思う。一之輔師も語っていたが、二ツ目になって「仕事がない」ほうが、修業よりずっと辛い。
春風亭昇太師も、柳昇のもとで雑用などやらずにノビノビ育って今がある。そしてご自分の弟子も、そのように育てていて、その中から昇々さんをはじめとして売れ出している。
厳しい修業をさせる噺家さんも、弟子のために一生懸命なのだ。それはよく理解する。
そういう、いかにも読者に喜ばれそうなスパルタエピソードも、「寄席芸人伝」に事実たくさんある。
だが、修業の手段は、しばしば目的化してしまうのだ。
ただ現実世界、緩い修業の成果で大成した噺家さんが、自分が弟子を取ったとたん、厳しい修業をさせ始めたりするからよくわからない。すると案の定、育たない。
人を育てるのはつくづく難しいものです。
(2021/2/28追記)
「食いてえか? なら一人前になりな」は、三代目桂三木助の言葉らしい。