大型連休に落語を聴きにいく予定はありません。5月は池袋下席の柳家小せん師に備えたい。
そんなわけ、だからでもないが、「落語研究会」のTV放送で視た高座について。
雲助師の融通無碍振りがよく現れていると思い、これをつついてみます。
「菊江の仏壇」。上方落語の中でも屈指の「ひどい噺」として知られている。
東京では「白ざつま」という演題に変わることも。
よくできた嫁のお花がいまわの際にある。見舞にいく舅の大旦那を尻目に、夫の若旦那は、芸者の菊江を自宅に呼んで遊び呆けている。
嫁が亡くなってしまい、力を落として帰ってくる大旦那。遊ぶ若旦那を見て心底呆れる。
仏壇を開けると、慌てて隠した芸者の菊江がそこにいる。亡くなったばかりの嫁にそっくりの菊江を見て大旦那は驚愕し、「どうか成仏しておくれ。消えておくれ」。
菊江が答えて「私も消えとうございます」。
男尊女卑の世界観を、そのまま現代に持ってきて聴かせても、客の耳にはスッと入らない。これをどうこう言ってもせんないことである。
落語というもの、決して昔話ではない。語っているのは同時代なのだ。それに耐えられず、滅びていく噺もある。
サゲが変えづらい「厩火事」など、なくなると惜しいが、いずれ滅びてしまうと思う。
落語界屈指のインテリであり、噺に理屈で迫ろうとする桂米朝には、「菊江仏壇」やりづらい噺であったろう。
「なぜ若旦那はこんなにひどい人間なのか」「なぜこんなひどい人間を描いた噺を先人は手掛けていたか」を解決しなければならない。
しかし、米朝はついに解決できなかったのではないか。そうすると、噺のメインテーマでなく側面に価値を見出してやらざるを得なかったのではないかと思う。
「大工調べ」などのメジャーな噺であっても、「大家はそんなにひどいことをしているのか」という疑問を持ってしまうと、噺家さんはもう掛けられなくなるらしいし。
雲助師、このひどい噺をどう語るか。
ひどい人物である若旦那の心境にいくばくかでも立ち入ろうとするなら、「なぜ若旦那はそんなひどい行動を取るのか」を掘り下げなくてはならない。
だから、「なんでもできる嫁だから気が詰まるのだ」と若旦那に語らせている。
だが、若旦那の非道振り、それで許されるようなレベルではない。
この独白、師匠、先代金原亭馬生の演出を引き継いだだけで、雲助師の本音はそこにはないのではという気がするのだ。
雲助師は、この噺をただ「こういう噺だ」として語っているように思える。
「ひどい若旦那が主人公の噺」である事実から雲助師は逃げていない。若旦那の免罪を真剣に考えているふうではないのだ。
談志は落語を指して「業の肯定」と言った。
しかし、この言葉も便利すぎるきらいがある。特にこんな噺を理屈で正当化するときには。
要は、噺を肚に収めるためには、そんなフレーズが必要だったのでは。
雲助師、別に若旦那を肯定しているでもなく、ピカレスクヒーローとして位置付けているわけでもなく、ただの噺として語っているようだ。
馬生のものもそんな感じだ。
雲助師、馬生の噺をそのままのスタイルで掛けることは少ないと思うのだが、でもこの噺に関してはよく似ている。
馬生の噺へのアプローチの仕方がもっともふさわしいと判断したからではないのか。
東京では、柳家さん喬師も「白ざつま」としてこの噺を掛けるが、さん喬師はもう少し聴き手に納得のいくキャラクター造型に務めている。
若旦那のやむにやまれぬ心情と、そこから生じる悲劇を描いた人情噺に作り替えている。
他の演者では、記号に過ぎない芸者の菊江にまで、生命を吹き込んでいる。人情噺の大家としての見事な仕事だ。
だが「菊江の仏壇」、本来はただの滑稽噺なのだろう。
生きている人間を幽霊だと思い込む、そのシチュエーションがおかしいという。
事実、「山崎屋」「味噌蔵」などに似た、商家の落語にはおなじみのウケどころも多数仕込まれている。
さん喬師のやり方では、そうした風情は失われている。
雲助師は、若旦那の行動を説明しない。
この「菊江の仏壇」をブログで取り上げようと思ったのは、これがもう、やたらと耳に気持ちのいいものであったから。
気持ちよくないはずの噺から、爽快感が漂ってくる。一体なんだろう。
気負いのない雲助師は、若旦那の、ただの人間のありさまを提示する。
中身のない人間として描くのではない。「こういう人間」としてしっかり描く。
「らくだ」などもひどい人間の噺であるが、登場人物が「あちらの世界」の住人だと思うから、聴き手も比較的安心してその世界を楽しめる。こちらの世界に一番近い「くず屋」も最後に逆襲するし。
商家の世界だって、本来は庶民の生活とは異なる。同じ世界の住人だと思わず、突き放して聴けばいいのかもしれない。
だが、この世界は古典落語ではおなじみのもの。若旦那はわれらの仲間である。
「山崎屋」「味噌蔵」以外にも、演者にもよるが「木乃伊取り」「二番煎じ」などのエッセンスまで「菊江の仏壇」に詰まっている。
こういう、落語好きにおなじみの世界の中心に置かれたこの噺において、あちら側の住人だとみなすのが難しい若旦那、残念なことに、愛嬌のある放蕩息子キャラとちょっとだけずれている。
このちょっとのずれのゆえに、聴き手に「ひどい噺」だとして伝わってしまう。
落語というものは、感性で味わっているときがいちばん楽しい。
その次に、その感性を理屈で説明しようとしてみると、これが負けず劣らず楽しい。
だが、よくできた作品であればあるほど、完全に理屈でもって解明することはできない。その、解明できない部分に「文学性」が漂う。
「文学」というのは落語を語るときに、私が好んで使うことば。
「業の肯定」などと同じく、マジックワードであり、便利な言葉である。それは否定しない。
落語を語る人は、落語を文学として語ることをしばしば忌避してきた。それはそれ。
文学的な落語があったっていいじゃないか。私はそう思っている。
若旦那の行動に謎があり、でもなんだか腑に落ちる。ここに文学が漂う。
聴き手は、自分なりに解釈してもいいし、解釈をあえて放棄してもいいのである。
だが、自分なりに解釈するという楽しい作業の前に、まず雲助師の「菊江の仏壇」、ひとつの文学としてダイレクトに当方に響いてきた。