馬ん長 / だくだく
圓満 / 転失気
花
双葉 / やかん
鯉橋 / 時そば
ボンボンブラザース
今輔 / 飽食の城
遊雀 / 電話の遊び
(仲入り)
ひでや・やすこ
小夢 / 看板のピン(代演)
可龍 / 大安売り
コント青年団
圓馬 / 佐々木政談
連休中は寄席に行く予定がないと言っておきながら、どこにも出かけないというわけにもさすがに行かず、結局、家族で池袋に行きました。5月5日はこどもの日。
都内の各寄席の顔付けをよく見て、行くなら断然池袋である。
すばらしい内容で、いい家族サービスができてよかったです。来年も来ようかなと、気が早いけど思ったところ。
午前中に仕事の目途をつけて、池袋の夜席へ。サラリーマンじゃないので、連休中も仕事している。悲壮感はまるでないですけどね。
夜席に行くこと自体、習慣としてほとんどないのだが、そこは連休。
なにせ連休に寄席に行ったことがないもので、混雑状況がわからない。それでも、夜なら立ち見もないだろうと予想して。だいたい予想通りでした。夜席は八分の入り。
芸協の寄席、今年はもうちょっとしっかり観ようと決意したのに、まだ1回行っただけ。
私のホームグラウンド池袋演芸場は、下席が落語協会の芝居で固定で、上席と中席を落語協会と芸協とで交互。だから全体の3分の2が落語協会の芝居である。
そうすると、3回に1回芸協の芝居を見ているなら計算が合う。
都内の寄席で唯一、「東京かわら版」割引のない池袋であるが、念のため探してみたら、圓馬師匠のフェイスブックをプリントアウトすると割引とのことであった。
ラッキー。
ひとりだったらどうとでもなるが、家族がいるとなると席を確保しなくては。と思って早めに現地入りし、昼トリの桂文治師の高座を途中から立ち見で覗く。さすが昼席は超満員で、子供の姿も目立つ。
大きな声の文治師、「幽霊の辻」を掛けていらした。へー、お持ちなんですね。
桂枝雀のために小佐田定雄先生が書いた、明治の古典風の新作である。東京では柳家権太楼師匠で聴いたことがある。
「恐怖」をテーマにした楽しい噺で、東西問わずもっと掛かってもらいたい。文治師は、権太楼師に教わったのだろうか。
文治師、この日の上方ゲスト桂三金師と、その師匠の当代文枝師をいじりまくっていた。
「ドスケベの文枝。昔の文枝じゃないよ、今の文枝、サイコロ振ってる」
上方落語協会の会長に対し、上方の噺家さんではまず言えまい。でも、名前だけなら文枝より、文治のほうがエラいのだ。
さらに、入口付近で立ち聴きするわれらの横を抜けて、途中で帰った客がいたのだが、その客を劇中に登場させていじりまくる。
「こんなところに人が倒れてる。さっき帰ったおじいさんだ!」。
いきなり得をしました。
昼席がはね、残った客も結構いたが、無事席を確保。
三遊亭圓馬「佐々木政談」
そういえば、圓馬師のフェイスブックを印刷して持ってって、ちゃんとテケツで見せたのに、危うく通常料金、親子割だけついて6,000円取られるところでした。
人のやることですから間違いもありますが、客も気を付けなければ。
親子3人で5,000円になった。時間の短い下席と同じ値段になり、日ごろ割引のない池袋でこれは嬉しい。
ちなみに、もし鈴本に行っていたら、この日子供料金もなくて、10,500円取られている。
それにしても、ひと様のブログを覗いても、料金や割引のことなんか書いている人、見たことない。
ワレながらセコでゲスな。
落語聴く人は、わが家以外みな大金持ちなのか? 本当に金持ってたら、綺麗なお召し物着て歌舞伎に行きそうだけど。
ちなみに「テケツ」はチケット売り場のこと。通ぶって使ってみました。
一応、プライバシーも大事だからあまり書きたくないのだけど、書きたい気持ちもちょっとある。
こどもの日のこの席、うちの坊主が随分活躍したのです。昼は昼で、きっと活躍した子供もいたのだろうけど、夜席の子供はうちのと、もうひとりだった。
遊雀師と可龍師、それから「ひでや・やすこ」師匠に話しかけられ、花さんには鯉のぼりの紙切りをもらい、ボンボンブラザース師匠の帽子投げに参加させてもらった。
いい思い出になったろう。
いっぽうでトリの圓馬師、この人は、昔ふうの入り方をして、客いじりなど一切しない人だ。マクラもだいたい一緒。
だが、「佐々木政談」を出してくれたのは、子供のためだったと信じている。
ヒザ前の可龍師、うちの坊主に「落語好き?」などと話しかけてくれていたが、圓馬師のためのリサーチだったのではないか。
「客席の子供どう? 反応いい?」
「ええ師匠、あの子は落語かなり好きですよ。退屈してないですし、本格派の噺でも喜んでくれますよ」
「そうかい。じゃあ『佐々木政談』なんてどうかな」
「いいですね、きっと喜びますよ」
楽屋での、圓馬師と可龍師の会話(想像)。
昼席で、「真田小僧」や「初天神」「雛鍔」などは出なかったのだろうか?
こどもの日だから出ていそうな気もする。でも、それらが出ていたら「佐々木政談」、ツいてやれない気もする。
それでも、「真田小僧」とはまるで雰囲気の違う噺だし、あえてやってしまうのもありかもしれないが。
ちなみにうちの子、実のところそこらのファンよりずっと落語には詳しい。昨年池袋にも3回連れてきている。
子供がいると、客が勝手に廓噺など期待していても、まずかからない。
だから、他の客に申しわけない気持ちもちょっとだけある。
でも、「佐々木政談」の掛かる中、ちょっと横を向いたら、そこにはもう、年配のお父さんたちの、デレデレの笑顔があった。
私もそうだもん。
聴いていて、とても嬉しく、楽しくなる噺である。顔が緩むのも無理はない。
また圓馬師の、お奉行と坊主の描き分けがすばらしい。
家内も大満足だったそうなので、決して寄席マニアのただれた独り言ではないのです。
寄席の満足度
それにしても、満足度の高い寄席が続いている。
たまに、なぜ俺は寄席ばかり行くのだろうと、自問自答することがある。落語を聴く場所は決して寄席だけではないし、「東京かわら版」でホール落語もチェックはしている。ともかく、寄席で高い満足を得ると、やみつきになる。
このブログを始めてもうすぐ1年になる。その間出向いた「寄席」で、つまらなかったものはひとつもない。ここ1年の寄席満足率は100%ということである。
決して、「寄席が必ず面白い」ということではない。それはわかっている。つまらない寄席も、しっかりこの世界の片隅に存在している。それと出逢うことも、またあるだろう。
番組編成において「席亭の意向」というものが反映されず、トリの一門の芸人が自動的に出てくる「国立演芸場」定席など、かなり危ない。層の厚い落語協会の芝居であっても、なかなか危険である。
国立演芸場にも先日出向いたばかりだが、林家正蔵師匠のネタ出しの「百年目」を聴くため、割引の効く仲入り後から入ってセーフだった。最初から観ていたら、寄席連勝記録に傷がついた可能性もある。
連勝記録の中で、かろうじて「行ってよかった」とは思ったものの、つまらない噺家さんを二人聴いてしまって結構落ち込んだのは一回だけある。昨年十二月の新宿上席。
つまらない噺家さんというのは、面白い噺家さん二人分は潰してしまう。つまらない噺家さん二人で、面白い噺家さん四人分は潰す。この日は代演でそういう人まで出たので、かなり危なかった。
ただ決して、「下手な噺家さん=つまらない噺家さん」というわけでもない。
前座、二ツ目、売れない真打、いろいろ登場する。下手な噺家さんはたくさんいる。だがそういう噺家さん、普通にやっててくれていれば別にどうということはないのだ。普通にやれず、客の気持ちを突き落としてしまう恐ろしい芸人がたまにいると、ひどい目に遭う。
幸い、池袋演芸場の席亭から、そういう恐ろしい芸人はなかなかお呼びがかからない。この日も、下手な落語はあったけども、そういう恐ろしい芸人はひとりも出なかった。
私が、池袋を愛しているのには、そういう理由もある。だから池袋の満足度は常に高い。鈴本もそう。
この日の二ツ目の橘ノ双葉さん(女性)など、「やかん」を掛けていたが、途中「やかんは昔は『水沸かし』と言った」というセリフをすっ飛ばしてしまった。あとで、説明なく「水沸かし」がいきなり出てきた。
噺としては大失敗。本人も、やっちゃったなという顔をして去っていった。
でも、明るい高座でそんなに悪くはなかった。失敗したっていいのだ。客の気持ちを損ないさえしなければ、失敗は罪ではない、と思う。
だから、堂々と胸を張って降りて欲しかった。
正直、交互出演の神田松之丞を聴きたかったのだけど、でも、まあいい。
ちなみに、彼女と、それから順番入れ替えでトップバッターに出てきた橘ノ圓満師。ともにトリの圓馬師の弟子である。
不勉強で知らなかったのだが、圓満師は、師匠圓馬と三つしか年が離れていない。入門時期も、四年しか離れていない。
預かり弟子で、かつ、もと兄弟弟子という事情があるにせよ、極めて珍しいことですね。師匠と亭号が違うのも、このへんの経緯をなんとなく物語っていて複雑な感じ。
瀧川鯉橋「時そば」
この日の当たりは、まず瀧川鯉橋師。
瀧川鯉昇師の弟子で、ユニークな人であるとは知っていたが、高座に出逢うのは初めてである。
「時そば」に入る。初夏になって時そばか、と思ったが、これが、師匠鯉昇のバージョンだ。
鯉昇師は、「時そば」を季節感から解放し、さらに「そば処ベートーヴェン」にしてしまった人。
そこまでぶっ飛んではいない、「時そば」もある。まあ、それでも十分にぶっ飛んでますが。
「サゲがない」というバージョンがあるのだ。今日の「時そば」がこれ。
「時そば」は、サゲに向かってまっしぐらにストーリーが進んでいくという種類の噺である。その噺の肝であるサゲを、「たいして面白くないから」という理由でサゲずに降りてしまう鯉昇師はすごい。サゲのない「芝浜」「死神」は想像できないが、「時そば」は現に存在するのだ。
鯉昇師は、フラを前面に押し出した高座を務めるが、弟子の鯉橋師は、もう少しカッチリしている。カッチリしているが飄々としている、なかなか得難いキャラクター。
三三七拍子でそばをすする場面や、二人目のそば屋で、一口つゆをすすってひっくり返らないために塀際で食べるギャグなど、師匠の噺のままである。
だが、噺は同じでも、演じるキャラが違うので、客への噺の届き具合が異なり、とても楽しい「時そば」でありました。
師匠の噺をそのまま掛けてウケる人はなかなかいない。師匠の呼吸をそのまま真似ると劣化コピーになってしまうから。
この点、自分の芸を知り、師匠と自分との違いをよく知る鯉橋師は立派なものだ。
ボンボンブラザース
次が大好きなボンボンブラザース師匠。
こういう、楽しい色物の師匠が出ているところに、落語協会とひと味違う芸協の寄席の価値があるのである。
生でお見かけするのも久々であるが。よく考えたら、池袋では観たことがなかった。
高さと、場内の広さをフルに活かした芸だから、池袋は窮屈そうだ。でも面白い。
うちの坊主が帽子投げを務めたのだが、ひと投げするたびにヒゲの繁二郎師匠、ウケを取っている。
坊主もウケに貢献できて、嬉しかったようである。たぶん、自分がウケているような錯覚を起こすのだろう。
古今亭今輔「飽食の城」
その次が古今亭今輔師。
この名を検索すると、いまだに40年前に亡くなった先代ばかり出てくる。大きな名前を継ぐと大変だ。
ユニークな新作を多数手がける当代今輔師、私は大好きなのだ。だがCDは1枚しか出ておらず、TVにはなかなか出ない。聴く機会が少ない。
かつての「柳家喬太郎のようこそ芸賓館」では、総集編のときに「群馬伝説」が再放送されていた。総集編で出たということは、その放送、人気があったのだろう。
この日の演目は「飽食の城」。知らない噺だったのであとで調べたのだが、昔からやってる作品のようで、すぐヒットした。
太閤秀吉に攻められる城が、壁・床をお菓子で作っておいたので兵糧攻めに耐える。
城攻めには長いこと耐えるが、城内のものはみな糖尿病になるという、とにかく、人を舐めたふざけた噺だ。お菓子も、ポッキーとかキャラメルとかだし。
ふざけた噺を、お武家ことばを使って真面目に語る今輔師。真面目といっても、そんな噺を語る了見だから、やっぱりふざけている。
「真面目にふざけている」感じが、私にはなんともたまらない。息子も喜んでいたが、親父のハートもわしづかみ。
「今輔」という名前は、新作落語をメインにしているから継いでいるのだろうが、芸協の昔の新作のムードはなく、落語協会で盛んな新作に雰囲気が近いと思う。
もっともっと売れて欲しい人だなあ。
三席連続で楽しい高座を観て大満足だが、楽しさはまだまだ続くのでした。
三遊亭遊雀「電話の遊び」
仲入り前の三遊亭遊雀師。この日のお目当てのひとりである。
山口県のお寺に落語をしに、歌丸師匠のお供で行ったという定番マクラで、がっちり客を掴む。
そこからなんと「電話の遊び」。珍しいにもほどがある。
「でんわのあすび」というと通っぽい。わざわざ言わなくていいけど。
現代の噺家では、五街道雲助師の音源がある。雲助師は勝手に覚えたそうで、教わるとしたらそこからしかなさそうだ。
遊雀師、先に出た双葉さんを、この噺の芸者に据えていじる。なんでも、落語もできてお座敷も務められるんだそうだ。
江戸の遊びは、吉原など廓ばかりで、芸者遊びは上方落語の独壇場。この噺も上方生まれらしいのだが、東京の雰囲気が漂う気がする。
若旦那に外出を止められた大旦那が、まだ珍しい電話で贔屓芸者の歌を聴いて楽しむ、粋な話。
大旦那と芸者「双葉」との、受話器を持った仕草の描き分けも素晴らしい。たまに混線があったりして、これがサゲの伏線になる。
遊びの噺でも、廓噺ではないから、子供が客席にいてもやって構わないらしい。まあ、うちの坊主は廓噺でも全然OKですが。
遊雀師、昔の電話について、うちの坊主をターゲットにして、わかりやすく解説してくれる。
あとで訊いたら、坊主は昔の電話のことは知っていたが、「知っている」というと空気が読めない対応だと思ってふんふんとうなずいていたそうだ。
さすが、寄席というところは、ちゃんと子供もシャレがわかるように教育してくれるのである。
さらにすごいのが、ハメもの入りであること。
まあ、ハメもの自体は東京でもたまにあるけども、上方でもそうそうお目にかかれないような見事なハメものであった。
芸者が三味線を鳴らす場面で、実際の三味線が入るくらいは当然だが、電話が混線するとピタッとこれが停まる。混線が解消するとただちにまた三味線再開。
寄席でもって、これだけ入念にできるものなのか? ホール落語もびっくりである。
楽しい楽しい噺でした。「電話の遊び」、遊雀師から他の師匠に伝わると、寄席の噺もますますバラエティ化に貢献し、さらに楽しそうだ。
手拭いで電話を掛ける場面で、前方の客の携帯が一声「ピッ」と鳴った。絶妙過ぎるタイミング。
生きた芸の名手遊雀師、早速「なんか鳴ったけど大丈夫かい」と噺に取り込む。
見事な腕だが、そもそも変な音鳴らさないで欲しいものだ。
この日も結構携帯が鳴った。鳴りっぱなしではないのだけど。
最近、客が携帯鳴るのを本当に気にしなくなっていると感じる。世間ではそれでいいのだが、どうか落語には、その感覚を持ち込まないでほしいものだ。
そのうち寄席にも、劇場みたいに通信妨害が掛かるよ。池袋はしないと思うけど。
ちなみにうちに帰ったら、遊雀師のCDがうちにあると息子が言う。そんなもんあるわけねえじゃねえかと返したら、「落語ファン倶楽部」の付録CD(船徳)がちゃんとあった。忘れててすみません。早速聴きながら寝ました。
遊雀師の世代は、大変層が厚い。この厚い同世代の噺家から、一歩抜け出したのではないだろうか。
あれだけ見事なハメものが下座さんに頼めるのだ。すでに外様という感じでなく、芸協のエースだと思う。
ちゃんとしたCDも早く出して欲しいものだ。
昼席から居続けの人の多くが、遊雀師のあと、仲入りで帰っていった。帰るタイミングとしては悪くないが、夜席からの我が家はもちろん残る。
続きます。
三笑亭可龍「大安売り」
仲入り後は、ひでや・やすこ師匠で「最高最高」。
演者と一緒に「最高最高」をやると、妙な一体感が生まれて楽しい。
ナイツの番組に翌日(6日)出て、カミングアウトの件を暴かれるのだと話していらしたが、特番で普段より早く始まっていて見逃してしまいました。
代演に小夢師が出てきて、今日は講談がなし。本来は鯉栄先生。
池袋演芸場は、落語協会のときはマメに、順序入れ替え、代演、交互出演の当日出番など、毎日プログラムを刷り直す。
芸協の芝居ではなぜか刷らないので、プログラムにない代演が普通に出る。どういう仕組みなのか知らないけど。
ヒザ前は三笑亭可龍師。
この師匠も久しぶりだ。真打昇進直後に、若々しい勢いを感じた。別に、今になって勢いが落ちたと言いたいわけじゃない。今でも溌溂としている。
偏差値の低い高校の学校寄席は大変だというマクラから、うちの子を「落語好きなの?」といじり「大安売り」。
ヒザ前らしく軽い噺で、もたれなくていい。サゲまでやらないなと思ったらそのとおり。ネタ帳には別の演題が書かれるのかもしれない。
アフリカ出身の「大エボラ」という怖い相撲取りとの対戦が入っていたのが面白かった。主人公は逃げて対戦を避け、客席から取り組みを覗いて、「エボラはかんせんするものでごんす」。
取り組みの相手が逃げてしまっていたら、ただの不戦勝ではないかというツッコミは野暮だろうな。
「大安売り」CDなどにはまず収録されない、寄席専門の噺だと思う。TVではたまに流れる気がする。
長くやろうと思えば、大阪から京都、名古屋と延々と相撲巡業を続けることができる。時間調整には便利だ。
寄席だけに通っていても、落語の全貌は決してわからない。ホール落語にほとんど行かない私は、落語を知り尽くすことはできない。だが、こういう寄席ならではの噺というものもある。
多数の芸人さんが出る寄席では特に、出番が重要である。「ヒザ前」は、主任の師匠のために寄席を落ち着かせて、かつ期待を次につなげる大変重要かつ難しいポジション。
可龍師、若いが見事なヒザ前だ。ヒザ前はウケすぎたらいけないが、つまらない噺をやって降りてきたらいいというわけではない。
うちの子に話しかけていたのも、ヒザ前の仕事を忠実に果たすためのリサーチだと思っている。
こういう見事な仕事に出逢うと、寄席っていいなあと改めて認識するのである。
ヒザはコント青年団。
「ヒザ」というのは、色物さんが務めるポジションで、トリに向けて客の頭を空っぽにする役目がある。
太神楽やマジック、紙切りなどが多い。
コントというのはどうなのかと思ったが、落語と空気が違うので、ウケても特に問題はないようだ。軽いネタで楽しい。芸協はD51とか、コントのヒザはありますね。
万全の仕事があって、そしてトリの圓馬師匠につながる。
すでに書いたのでくだくだしくは述べないが、それは楽しい高座でありました。
やっぱり池袋は最高最高。