NHK「日本の話芸」でも、「中沢家の人々」の再放送が流れた。
圓歌師匠のご冥福をお祈りします。
亡くなったときのニュース記事が「山のあなの・・」と書かれていて、ちょっと不思議であった。中年の私も、「山のあな」、つまり「授業中」にリアルタイムでは触れていない。
お年寄りでない限り、やはり「中沢家」が代表作だと思うのだが。
だが、「浪曲社長」は覚えているから面白い。覚えているということは、TVで数回視ているのだと思う。
「中沢家」に切り替わったのは私が小学生の頃ではなかったか。
それにしても、昔の新作落語というのは急速に古くなっていくのにも関わらず、現代に師の「月給日」など聴いても決して古く感じないのは見事である。
「中沢家の人々」というのは、虚々実々の世界を描いた噺だが、実際のところはほぼフィクションだということだ。
「中沢家」を始めたころは、世間にはリアルドキュメンタリーとして認知されていた。
やがて圓歌師が高齢になり、「もう亡くなった爺さん婆さんの話だが」という断りが、噺の合間に徐々に入るようになった。だが、それすら、もうずいぶん昔のことだ。
圓歌師匠が落語界でも一二を争う長老になられてからも、やっぱり「中沢家」が掛けられていた。
フィクションである爺さん婆さんの噺が、普遍性を持つ昔話にまで進化したのだ。とはいえ、あくまでも一代限りの噺であって、「授業中」のように弟子がやることはもうないのだけど。
客に対して上目線の語り口も独特だ。昔は数人いたのだろうが、今は見ない。
談志もそうだが、談志の場合、上目線に拒否反応を示す人も大勢いた。圓歌師の語りは、拒否反応を一切もたらさない。
「中沢家」は、様々なエピソードで成り立っている。
時間を調整しつつ、客席を見つつさまざまなエピソードを入れ替え追加していく。今回流れたバージョンも、まったく同じものが他に存在するわけではない。
だから、何度聴いても楽しい。
芸たるもの、漫然と喋っていてはだめなのだ。
中には、弟子もめったに目にしないロングバージョンが掛けられることもあったらしい。
落語ファンにもいろいろいるが、バリバリの古典派で、圓歌師のような話芸を認めない人もいるのだろう。
「芸」としての比較なら、これだけ見事な芸などそうそうないのに。
「坊主の遊び」などの、「古典をやったらすごい」という評価も、決して間違ってはいない。だが、古典をやらなくてもすごい芸なのである。
私は、非常に「落語」らしい芸だと思っている。今、林家彦いち師などが「ドキュメンタリー落語」と銘打って「長島の満月」など掛けているが、その先駆けは圓歌師だ。
四十九日も過ぎぬのに不謹慎だが、「圓歌」の名跡は、至高の漫談芸の後継者である歌之介師に継いでいただきたいと願うものであります。