二ツ目の弟子全員を前座に降格しておいて、その暴力的行為を利用し、師匠としての懐の広さを世間に向けてアピールする立川志らく。
その了見のとてつもない気持ち悪さを、先日3日間に渡って批判した。
おかげさまで多くのアクセスをいただきました。
しつこいかもしれませんが、書き足りないのでお替わりです。また3日間。
事象に対するご意見はさまざま。
「落語好きで志らく好き」も、「落語は知らないが志らく嫌い」も、世間はいろいろ。
私は「落語好きの志らく嫌い」。
私の好きな落語の世界の中に、この了見の間違った売れっ子噺家の占める地位はない。
一介のファンが、プロの了見をどうこう言っていいのか、言うべきかという問題がまずある。
これはすでに、3日間の記事の冒頭で述べた。
志らくは、しばしば勝手に落語の世界にオリジナルの定義を持ち込みながら、都合のいいときだけオリジナルを一般化して語るという、卑怯なロジックを用いる男である。
ところで、ツイッター等でさまざまな意見を読んで、志らくに賛同する、または許すファンの心中はおおむねわかった。
今日は、さらにこれを批判してみたい。
賛同している人は、現代がどういう時代なのかを理解できていない、極めて危険な人たちだ。
存在自体が危険というより、ひとりひとり、残りの人生においてなにかしらやらかすかもしれない。
その危険性を勝手に心配する。
志らくを許してしまう人の背景にあるのは、ファンの勝手な「落語界の聖域化」。
落語をほんの少々知っている人に特にありがちな認識の誤りであるが、噺家をなぜか日常と隔絶された超人としてあがめてしまう。
「噺家さんは、落語を200も300も覚えていて、いつでもすぐに掛けられるのだ」なんて。
昔、こんなのがYahoo知恵袋にずっと掲載されていたもんだ。
また、わけわからないファンが「プロの噺家は全ての噺を覚えています」なんて根拠のない回答で、誤解を強化する。
この誤解はさすがに極端だが、誤解の背景には「噺家を尊敬したい」という一般人の気持ちがあるのは間違いない。
程度の差こそあっても、「噺家は常人と異なる特殊な通過儀礼を踏まえ、超人として生まれ変わった人々」と思っている人、または思いたい人、結構いるのではないか?
だが、それはいったいどこから得た認識? なんの理由もなく、「噺家は教養が高い」と思う人もいるがそれと一緒か。
「笑点」が落語だと思っているファンを小馬鹿にする、ちょっと知っている程度の落語ファンも危ない。
「落語界には笑点メンバーよりずっとすごい人たちがいる!」と言って。ここに志らくも入れてしまう。
私の場合、落語を聴けば聴くほど、噺家が超人であるとの誤解はどんどん溶けてなくなってくる。
切れば血の出る人間だからこそ、表現者としてのありように深い敬意も払う。そしてたまには、人としてそれはダメだろうと思うこともある。
きちんと人間として捉えているからこそ、ひとのいい師匠のほうが好き。三遊亭好楽師など、人柄がたまらなく好きで、それで落語も好きになる。
他方多くのファンは、噺家のことを勝手に超人と認識するため、いきおい通過儀礼である修業についても厳しいものを一方的に期待する。
実際に一流とされる噺家さんが、すべて常人から並外れた厳しい修業で育ってきたなんて法則は、実のところどこにもないのですがね。
もっともプロの噺家でも、弟子に厳しく当たることが当人のためだなんて思いの人もいるから、ファンの誤解も無理からぬところもある。
幸い、そんな一門から秀でたスターはそうそう出てこない。
小三治門下の柳家三三師はスターといっていいだろうが、師匠が晩年になり、だいぶ無駄な厳しさが薄れてきたことが成功の要因ではなかろうか。