三遊亭円丈

 

 

三遊亭円丈師について書いていく。

一流の新作落語演者であるとともに、新作落語家の教師であり、偉大な新作落語作家である。
古典落語につき圓生からも評価される技能を身に着けておき、古典落語のカバーしない新たな領域に進んでいったその功績は、後進のとうてい及ぶところではない。
新作落語が人口に膾炙するようになった昨今であるが、それでも、円丈師がもし引退したら、一緒に消滅してしまう要素は非常に多い。
落語界に多大な貢献をした噺家であるが、その偉大さが、世間にくまなく浸透しているとも思えない。
ご本人としては不本意だろうが、「ミュージシャンズミュージシャン」的なところの見受けられる噺家さんだ。
釈台に台本を置くようになった今の円丈師であるが、その偉大さが急激に私の中で大きくなってきている。微力だが、師匠の評価を少しでも高めていきたい。

円丈師、後進の新作落語家と違うのは、客に直接語り掛けないスタイルである。客に向かって語り掛けているように見え、本当は客の前、一線を引いて語っている。客は、その一点に向かって噺を語る円丈師を、一歩離れて見ている。
昔の噺家さんには、みなこういうところがあったように思う。この点、円丈師が特別ではない。
ただ、今の新作をやる噺家さんは、みな客ひとりひとりの目の前で喋るようなかたちだ。新作には、こういう語り口があるいは合っているのか。
しかし、円丈師の噺を聴く場合、一歩引いて高座を眺めるがゆえに、違うものも見えてくる。これはこれで面白い。

円丈師の新作、即物的な「笑い」を追わないストーリー展開が素晴らしい。もちろん落語であり、滑稽噺である以上、「笑い」と無縁ではない。
ただ、噺のアイディアに肉づけする際、この師匠は「笑い」を求める方向には進まない。大阪ではウケたことがないと語っているが、こういうところに一因があるだろう。
笑いを欲しがらないこの手法、弟子も含めて次世代の噺家はあまり受け継いでいないようだ。
わずかに、柳家喬太郎師の新作にこの傾向がある。でも喬太郎師の場合、どんな噺でも笑わせるセンスを持っているので、あえて即物的な笑いを求める必要がないということもあるだろう。
ワンアンドオンリー円丈師が狙っているのは、直接的には「笑いの量」ではなく、「客のハートをいかに揺すぶるか」だと思う。「笑い」というのは、揺すぶり方の一形式だ。

肥辰一代記

お客はなにによって揺すぶられるか。想像していない世界にあうと揺すぶられる。代表例として、ウンコの噺、「肥辰一代記」を見ていく。
ウンコの噺を作り、嫌がるかもしれない客の前で大真面目にこれを演ずる。師匠のこの心意気に敬意を表し、私も一番汚い噺から取り上げることにします。

肥辰一代記、おわい屋のウソ歴史から始まる。
ギャグも入っており客は笑っているが、しかし、ストーリー展開は決してギャグのためには存在していない。自分のセンスに対する絶対的な信頼がないとなかなかこういうストーリーは作れない。
噺の展開は、講談のように「歴史」を語ることが主である。
歴史とは、語るだけで面白いものなのだ。ウソ歴史もまた楽しい。
嘘だとわかっている歴史に、肉がついてくるから凄い。そして、このウソ歴史を背景にして、「肥辰」を継ぐ男の一代記に、実に不思議なリアリティが出てくる。
円丈師、人情噺を語るがごとく、ウンコの世界のリアリティを語り込んでいく。
父親の反対を振り切って、おわい屋になることを誓う若旦那の孝太郎。客は、孝太郎の思いに世間とズレがあるから、ウンコの話を笑うことができる。
だが円丈師、ズレをぶつけて客を即物的に笑わそうとはしていない。大事なことは、笑いの量より、架空の世界のリアリティをいかに語るか。

笑う客の心中はもちろんよく理解できるけども、ひとつ客の笑いをシャットアウトして、円丈師の世界に入りウンコの噺を味わってみよう。
このとき、円丈師の一線を引いた語りはプラスに作用する。客は、主体的にこの話芸に飛び込んでいけばいいのだ。
するとどうか。圓生譲りの話芸が、いきいきと聴こえてくるのだ。
そして、肥辰とウンコの物語に感動してしまう自分に気づく。いや、感動したって全然いいのである。

「肥辰一代記」、使っているギャグも、殺気ならぬ「うん気」とか、「できる!」ならぬ「汲める!」とか、実に面白いのだが、こういうクスグリで笑わせるという噺でもない。
その世界観で、客の常識を激しく揺すぶり、あまつさえ感動をもたらす。
大真面目に語り切る円丈師に引き込まれるが、しかしその光景を俯瞰してみると、ウンコの噺を語る世界の馬鹿らしさに噴き出してしまう。そんな噺だ。

私も、昔から筒井康隆など読んでいて、汚い話で度肝を抜く世界が全く未知のものというわけではない。だが、これが落語になると、ひと味もふた味も違ってくる。
なにせ「語る」のだからこの点生々しい。客によっては絶対ダメという人もいるだろう。
最近出た、「円丈落語全集1」によれば、「汚い噺だが、徹底的に演ずることでそれを乗り越える」のだそうだ。ただ、客席にイヤな顔をしている人がひとりはいるそうで、そのためあまり掛けたくないとのこと。
このひとりのお客さんのことを、野暮だとはいえないなあ、さすがに。

よく聴くとセリフも多いものの「肥辰一代記」は「地噺」である。すなわち、講談のように演者の語りが多い。
地噺を聴かせるには並々ならぬ力量が必要だ。円丈師をリスペクトする柳家喬太郎師が「肥辰一代記」をやると聞くが、残念ながら聴いたことがない。キョンキョンには合いそうな噺。
一度、下手な演者で「肥辰一代記」を聴いてみたいものだ。恐ろしく汚い噺に聴こえるのではないか。

 

遥かなるたぬきうどん

次に、やはりくだらない世界観を通じてひとを感動させてくれる噺を取り上げたい。
「遥かなるたぬきうどん」。
マッターホルンの山頂で待つ客のために、足立区のうどん屋が、たぬきうどんの出前を北壁ルートで届ける話である。
この噺の存在を知った時は、設定からしてシュールな落語なのだろうと思っていた。実際に聴くとかなり違う。
実際に山頂にうどんを届けるとして、「いかにして」これを実行するか。この「いかにして」を徹底的に掘り下げたストーリーだ。
山頂への出前を想像してみれば、これがいかに困難なことか。普通は想像しないんですが。
円丈師、噺のアイディアを思いついてから、この「いかにして」を徹底的に追求していったのだろう。その結果、凍傷にかかりながらうどんの出前を届けるストーリーに感動が生まれる。
「どうしてそんなことをするのだ」という根本的な疑問は、噺の全体を俯瞰した際に考えれば十分だ。
そもそも登山そのものが、「どうして」の塊なのだ。

そして描かれる情景のすばらしさ。
山頂でうどんを調理するうどん屋。山頂のマリア像二体に、わざわざ持ってきたのれんを掛けさせてもらう。首には「準備中」の札。
下山時に雪崩が起き、ドンブリ鉢だけが、サーフィンのように雪の上を滑っていく。
他にも細かい情景描写が多数ある。これらの情景だけでも噺を味わう価値がある。

「お前はただのうどん屋じゃねえ! 魂のうどん屋だ!」と客は叫ぶのだが、円丈師もただの噺家ではない。魂の噺家だ。

「遥かなるたぬきうどん」、マッターホルンの山頂に上がってからうどんを作る場面、細かいギャグも多少入っているが、これは観客に対して発する「これは落語なんですよ」というサインだろう。あるいは最低限のサービスというか。
実のところは、厳しい環境でうまいうどんを作り上げようという、シリアスなシーンが延々と続いているのだ。作り終わり、食べ終わって下山するシーンも同様。
ごく普通には、落語の客は「笑えない」シーンには不慣れである。
笑わなくても落ち着かない気分にならないシーンは、人情噺における「泣けるシーン」、怪談噺における「怖いシーン」、それから芝居噺における「芝居のシーン」くらいだろう。「泣いていい場面ですよ」というサインが演者から出ていると、直前まで笑っていた客は安心して泣くことができる。
だが、人間の感情というもの、喜怒哀楽ははっきりと分かれているわけではない。想像していなかった激しい揺すぶりに逢うことによって、なんだかわからない不思議な感情に襲われることがある。
円丈落語とは、こういう揺すぶりを狙っている芸だと思うのだ。
先に上げた、シリアスなシーンで客の笑い声が聞こえてくるが、本当は「一生懸命笑う」必要などない。目前で繰り広げられている芸がストレートに理解できなくて、不安だから笑うのだと思う。

落語を聴きながら、どこに視点を合わせるかは客の勝手。この「遥かなるたぬきうどん」を、俯瞰して眺めるなら、「マッターホルン山頂で繰り広げられる喜劇」として、笑うのは別に構わない。
だが、圓生仕込みの話芸に長けた円丈師、実は極めてシリアスに噺を語っている。そこに気づいたら、俯瞰しているのを止めて、目前の世界そのものに入るとさらに楽しめるはずだ。
客の前に一線を引く円丈師の芸、受け身のサービスに慣れていると理解しづらいかもしれないが、ひょいとその一線をくぐるだけで、すばらしい体験ができるはずなのだ。
たぶんこの収録に立ち合い、最後まで一生懸命笑っていた客ほど、終わった後でいたたまれない気持ちになったに違いないと思う。
「遥かなるたぬきうどん」では、この円丈師の高度な芸が味わえる。「落語」というものに対する固定観念を捨てて虚心坦懐に味わってみれば、その世界に入るのはそれほど難しくないと思う。

ただ、弟子たちはまったくこの芸を引き継いでいない。
このブログでは繰り返し書いているのだが、円丈師の弟子、三遊亭白鳥師は、「落語」全体を次世代に引き継いでいく中心的存在だと思っている。
白鳥師の芸には、円丈師の「笑い」の側面だけが引き継がれたように見える。そして、白鳥師は円丈師と違い、客との間に一線を引かない。噺の途中で、ギャグがウケただのウケないだのと口を挟み、客との間にできる仕切りを常に取り払うよう努めている。
白鳥師は、その出自と裏腹に、極めて正統派の本質を持っている。そして、師匠円丈のほうは、圓生の弟子として古典落語の修行をした身でありながら、極めて異端の芸に取り組んでいる。
本当は白鳥師にも、わかりやすい顔の陰に、説明しづらい陰影があって、それがたまに「砂漠の真ん中にある食堂とバー」というような説明不能の描写に現れる。その幅の大きさが、白鳥師の今後の芸を左右すると、私など思っているのだが。
円丈師の世界観をもっとも引き継いでいるのがやはり、直接の弟子ではない柳家喬太郎師だ。売れっ子であるのに、異端の芸に抵抗のない人である。

円丈師は、落語から落語を学ぶ人ではない。外の世界から新作落語のヒントを多数持ってきているようである。
その結果、文芸大作のような落語を作れるのだろう。

 

ぺたりこん

新作落語のパイオニアとして名高い円丈師であるが、ご本人はあくまでも現役のプレーヤーとして、後進と同じ土俵で闘っていきたいはずである。
「遥かなるたぬきうどん」のような名作を聴いていると、パイオニアとしての偉大さがよくわかる。だが同時に、ごく普通の「人気」がそれについてきていないことも、理解させられる。
ただその本質は、そんなにとっつきの悪い難しい芸ではないと思うのだ。ちょっと聴き方を覚えるだけで、素晴らしい世界が見えてくる。

個人的な話。
先日久しぶりにセロニアス・モンクのCD「ザ・ユニーク」を出して聴いたところ、実に美しい響きが聞こえてきた。かなり驚いた。
セロニアス・モンク、その愛称は「バップの高僧」。ジャズの世界において、非常に変わった人として知られている。その音楽は非常に難しいとされている。
私にとっても、易しい音楽というわけでもなかった。だが、久々に聴いたこの音楽が、ケレン味なく美しく聴こえてきたのである。
単に「理解ができた」のではない。「美しくて驚いた」のである。
聴けた自分の耳に驚くのもいいのだが、まずはモンクの音楽がきちんと独自の美しい体系に乗って完成されていたからこそなのである。
円丈≒モンク、と言いたいわけではないのだが、円丈師の落語も、ちゃんと気持ちよく聴こえる体系の上に乗っかっているのである。プロの噺家だけにその美しさを味合わせるのはもったいない。

そういう流れで、ちょっと難しい噺、不条理劇を。「ぺたりこん」。
ダメ中年サラリーマンの手が、なぜか机にくっついてしまうことによって発生する悲喜劇を描いた噺。
仕事のできない社員を冷ややかに見つめる上司たちは、誰も彼をこの状態から助け出そうとはしてくれない。理不尽な就業規則をもとに、彼は「机」にされてしまう。

救いのない噺。
この不条理劇が、段々と客のいる側の世界に侵食してくる怖い噺。
古典落語における「与太郎」は、客を安心させてくれる存在だ。私のように与太郎を自分の分身として愛する人も、たまにはいるだろうが、どちらかというと、一線を引いたあちら側から、こちらの常識的世界を楽しませてくれるキャラクター。
ダメ社員は、当初与太郎のように客に映る。客は、ダメ社員を持て余す周囲のほうに感情移入をして、遠巻きに噺を眺めている。
自分たちとは違う人種が、この世とちょっと違うルールで動いている世界。落語を聴くのにある程度慣れた客は、そのくらいの世界観には楽々ついていける。
彼が不条理に巻き込まれていく様を、カラカラ笑って眺める客たちは、ストーリーの進行に連れ、自分たちが不条理劇に巻き込まれていくことに気づく。
ダメ社員のダメ振りは、マンガ的エピソードとしてしか紹介されないのであり、実は彼がダメとされている真の理由などなにも知らないのだ。
彼が机として生きていくことを決意した瞬間、客は彼が血の通った、自分たちと同じ種類の人間であることを知る。客は机の彼に感情移入することでそちら側に閉じ込められてしまい、そして噺は救いのない終わりを迎える。
一気に笑い声が引いていく客席の変容自体が、この噺の最大のドラマだ。
救いのある終わり、というバージョンもあるらしいが。

正直、楽しい噺ではない。楽しくないが、避けて通りたくはない。
この噺によって引き起こされる人間の負の感情というものも、丸々マイナスというものではない。
再三述べているように、人間の感情を揺さぶることを円丈師は狙っているのだと思う。救いのない噺にも効能はある。

落語というものを聴くにあたり、人は快を求める。
優しさに包まれた噺を聴いて楽しむのはいいもので、まったくもっていい趣味だ。
だが、喜怒哀楽のうちのなんだかわからない感情というものがあるのだ。円丈師がこの感情を揺すぶろうと腐心していることに気づくと、その世界から逃げ出せなくなる。
柳家喬太郎師が、「ぺたりこん」をやるのはよく理解できる。喬太郎師もまた、円丈作品を通じて、客に揺すぶりを与えることを狙っているのだろう。

 

魂を揺すぶる円丈落語を聴き続ける。
落語というもの、一般的には聴き手の共同幻想の上に成り立っているものだと思う。少なくとも古典落語はそう。
よくできた新作落語も例外ではなく、古典の手法を隠し持っていることが多い。
だが円丈落語に関しては、聴き手の共同幻想の上にあるのかないのか。真上にないことは確かだと思う。
とはいえ円丈師、別に「ついてくる客だけついてこい」という選別をしているわけではないはず。ただ、客に期待する共同幻想の範囲が非常に広いのではないか。
私もまた、「ぺたりこん」のような不条理劇を眺めながら、聴き方をひとつひとつマスターしている過程である。
聴き方がやたら難しいということはない。自分の幻想を狭い範囲にとどめず、絶えず拡大していけばいい。そして、素直に噺に向かうこと。

自分の幻想を広げていけないことで、円丈落語を拒絶するのは仕方ない。それは聴き手の自由。
ただ、みんな大好きな柳家喬太郎師など、なぜ凄いのか。それは、古典落語のカバーする共同幻想から、さらに円丈落語の領域まで、大変広い範囲にあまねく君臨しているから。
こういう人の全貌をきちんと捉えるためにも、落語の耳は絶えず訓練していった方がいいのではないか。

 

藪椿の陰で

円丈落語をさらに聴いていく。次は「藪椿の陰で」。
人情噺である。これは、「遥かなるたぬきうどん」や「ぺたりこん」のような作品よりもぐっとわかりやすい。もっぱら泣かせる噺だ。
2011年に、弟子の白鳥師との親子会で掛けたVTRを観ているが、マクラで円丈師、面白いことを語っている。どうやら、同じ会で先に白鳥師の出した「真夜中の襲名」を指しての発言らしい。「真夜中の襲名」は、林家彦いち師の作品であるが、主として白鳥師のネタ。
「白鳥にはずっと言い続けてきた。落語はマンガと違い『擬人化』は合わないと。犬が喋ったりするのは違うのだと。だが、見事に外した。SWAメンバーはよくそういうのを作るが僕は今後も作らないと思う。住み分ける」。
「藪椿の陰で」の登場人物である犬は、この世に現実に存在し得る犬であり、人間のように喋ったりはしない。
「擬人化」をやらない発言は大変意外な気がする。随分と幅の広い領域で落語を作っているのに。それに擬人化の代表作品、柳家小ゑん師の「ぐつぐつ」はしばしば掛けているなあ。
そのことよりも円丈師、「落語に擬人化は合わない」という自分の考えが間違っていたことを客の前で語り、弟子を褒めている。こういう噺家さん、あまりいないと思う。
素晴らしい柔軟性である。師匠に似ていない白鳥師も、円丈師があってこそ生まれてきた噺家だということがよくわかる。

さて泣かせる噺、「藪椿の陰で」だが、円丈師がストレートに「泣かせること」を狙っているとは思わない。
やはり、人間のあらゆる感情、「笑い」を含めたこれを揺り動かすことを狙っている中で、比較的わかりやすい感情が噺の前面に出たということだと思う。この点、他の噺と同じ構造を持っている。
そう思うと、愛するものが死んでいこうとする、もっともしんみりさせるはずのシーンに笑いの要素がたくさん詰まっている構造もよくわかる。人間の感情が激しく揺り動かさせる場面において、「笑い」もまた自然なものなのだ。
古典・新作を問わず多くの人情噺において、序盤でたっぷり笑わせておいた上で、後半でがらりとムードを変え、たっぷり泣かせるという手法がしばしばとられている。非常に効果的な方法だと思うのだが、同時に紋切り型でもあるようだ。

家族再生の物語である「藪椿の陰で」。
親子三人、足立区の渇いた家族の家に紛れ込んでくる巨大おバカ犬は、家族をつなぐ触媒である。
犬は自分自身の意志で、家族のもとにやってくる。
家族は、積極的な意思によらずに犬を受け入れる。期せずして家族の一員となった犬は、家族の過ち、誤解により追い出される。
犬を追い出したことを激しく後悔する家族たち。家族に追い出されることを受け入れ、ひっそり死んでいこうとする犬。そして再会。
愛犬家の円丈師の噺ではあるが、この家族はもともとの愛犬家ではない。犬を愛することをいったん拒絶し追い出すという、あるまじき行動をとるのである。
だがそこに不快感はない。それは、この物語が「赦し」「絆」「動物愛」という人間のピュアな本質をテーマにしているからだろう。

犬はせっかく受け入れてくれた家族の前で大失敗をする。しかし、これは「散歩に連れていってもらえない」「餌を与えられない」という家族の過ちによるもので、犬の行動としては説明のつくものだった。背景には、犬によってつながり掛けた家族の、依然として続いていたコミュニケーション不全があった。
さりげなく描写されるが、犬の失敗のあった日には、家族は久しぶりに連れ立って外出したのだ。
犬が持ってきた幸せが一見結実した、まさにその日に繰り広げられる悲劇。
家族は犬を探すという共通の目的に向かい、今度こそ本当に結合する。

噺のコアアイディアになにがあるか、ある程度絞り込める。

  • 犬がいきなりマイホームにやってくるという非日常性
  • 家族がそれぞれ、To Doを怠ったことにより引き起こす犬の行動
  • アルマーニのバッグの中に脱糞するという犬の粗相、家族にとっての悲劇
  • 犬が出ていくことによる、新たに生まれた日常の新たな喪失

こういうアイディアを膨らませていくと、一編の噺になるのだ。
古今東西のストーリーと同様、まわりに多大な影響を与えて去っていく漂泊者を描いた噺でもある。
そこに神話的モチーフを感じる。落語的な世界観の上にはないようだが、もっと広い世界観の真ん中にあるのが円丈落語だということがわかる。
やるべきことを怠ったために罰が与えられるというのも、また神話モチーフっぽい。

そしてタイトルにも表れるが、描かれる情景の美しさ。
秋の晴れた日、御神木のイチョウの葉が舞い散る公園、藪椿の陰にたたずむ、弱った犬と家族三人。
落語とは、「情景を描くもの」という。情景が描ければ成功、というところすらある。
しかし、古典落語に、このような直接的な情景描写があるかというと、実はあまり思いつかない。
古典落語における「情景」は結局「人間」の描写である。
人間を描写する遠景として、桜や雪や紅葉など散りばめられることはあるが、これは風情であり、スパイスにとどまる。
だが世界には、人間がいる前に風景がある。最初から世界の主役に人間がいるわけではない。人間の営みは、まず情景のある前で、愚かにも繰り広げられている。

こういうところが、通常考えられる「落語」というものの範囲に収まらない円丈師の、文学者としての側面を物語っていると思うのだ。
落語は文学として成立すべきか、というと、別に成立しなくてもいいとは思う。でも、文学的な落語があったっていいじゃないか。

多くの円丈落語と同様、サゲはなく、余韻を残して物語は終わる。
ハッピーエンドなのがちょっといい。

新・ぐつぐつ

三遊亭円丈師をリスペクトしていった結果、ついに「大文学者」円丈を語るところまで行きついてしまった。
「悲しみは埼玉に向けて」「東京足立伝説」「月のじゃがりこ」「横松和平」など、どの噺を取り上げても、さらに話が大きくなることは請け合い。それぞれ違う要素があって、その要素すべてをリスペクトしてやまないので。

好きな噺家さんについて書いていくため集中して噺を聴くと、だいたい最終的には伝統的な古典落語と共通する要素が見えてくる。新作派の三遊亭白鳥師や、柳家小ゑん師などにも感じることである。
だが新作落語のパイオニア、三遊亭円丈師の作品からだけは、古典の要素がまったく漂ってこない。いかに意図的に古典の領域を避けていったかよくわかる。
円丈師の立ち位置を見たとき、これはなんという孤独な闘いなのであろうかと愕然とする。後進から尊敬はされているし、弟子もたくさんいる。新作仲間もまた円丈新作を手掛けてはいるが、円丈師は孤独だと思う。

などとわかったように書いているが、私もこの師匠の真価を理解できたのは最近だと思う。
円丈落語を苦手にしている人の気持ちもわかる。メインストリームにない落語だし。
また、ごく軽く聴いている人も多くいると思う。噺の骨格と語りがしっかりしていると、軽く聴けてしまうのである。
苦手のままや、軽く聴いているだけではダメだ、などという気は全然ない。でも、聴き方をマスターすれば、落語の耳がさらに広がる。
とはいえ、「落語の聴き方をマスターするなんて野暮だ」と反論されたら、再反論はしません。それもそうだ。

ちょっと軽い噺を取り上げる。円丈師は軽い噺もたくさんお持ちで、寄席のトリでも掛ける。
円丈師の盟友、柳家小ゑん師原作の「新・ぐつぐつ」。
「ぐつぐつ」はオムニバス落語だ。短いエピソードを継いでいく噺。
古典落語でオムニバス作品というと、「東の旅」「饅頭こわい」「地獄八景」「浮世床」など、主として上方の噺が思い起こされるのだが、エピソードの一編一編が長いのでちょっと違う気がする。
真にオムニバス形式になっている噺は、「宿屋仇」の別バージョンというべき珍品「庚申待」くらいしか知らない。

小ゑん師版と異なる部分であり、「新ぐつぐつ」のメインテーマとでもいうべきエピソードに光を当てる。
「主人公がイカ巻でなくちくわ」「エピソードの間にジングルとして入る<ぐつぐつ>の所作が異なる」など、そういう比較ではない。
「ぐつぐつ」では、おでん鍋の中の世界、外の現実の世界が交互に映し出される。
この両方の世界で物語が同時に進行するのだが、どちらかというと、小ゑん師は鍋の中、円丈師は現実世界を重視していると思う。
「メルヘンの小ゑん」「情感の円丈」という気がする。
「新・ぐつぐつ」の独自部分は、来るか来ないかわからない彼女を、おでん屋台で待つ若い男のエピソード。

「新・ぐつぐつ」において円丈師は、現実世界に生きるおでん屋の親父を、立体的に描いている。
人生の酸いも甘いもかみ分けた親父は、閉店前、ひとり残った若い男のことを覚えている。この間は女と来ていたな、と。
親父に客は言う。実は前回、彼女との別れ際、最後にふたりでおでんを食べに来たのだ。そこでスパっと別れるつもりでいたが、おでんの種の二個つながった糸こんにゃくを見て、簡単に別れてはいけないのではないかという啓示を読み取ったという。
もともと二人、「うお座」どうし。「うお座」の神話、アフロディーテとエロスが魔物から逃げる際、離れ離れにならないよう、尾を紐状につなげたまま魚に姿を変えたというエピソードを、つながった糸こんにゃくになぞらえる。
改めての待ち合わせを設定したこの日、結局彼女は来ない。結果としてうお座の物語は悲恋に終わるのだが、悲劇性よりも、しみじみと温かい情感の漂うエピソード。

これはひょっとすると、円丈師ではなく天文マニアの小ゑん師が考えた、「ぐつぐつ」オリジナルのエピソードかもしれない。ただ、小ゑん師でなく円丈師がこれを使っているということは、円丈師のニンに、より合うということだろう。
円丈師はこういうシーンをさらっと語る。おでん屋の親父は説教臭い人ではなく、ただただ人の気持ちに寄り添う。とても沁みる。
そして鍋の中でも、芋に潰されて形が悪く売れ残った主人公、鍋の主「ちくわ」と、腹を切り裂かれてギンナンが飛び出てしまった「巾着」の恋物語が進行する。
小ゑん師の「ぐつぐつ」と違うのは、残った種どうし、お互い疵ものだということ。疵ものどうしの恋は、鍋の外とパラレルに悲恋に終わるが、これもまた、決して悲劇ではない。ひとり鍋の中に取り残される「ちくわ」の心を清涼感が通り抜けていく。
頑固爺さんのような風貌の円丈師だが、その心中にとてもピュアな心情をお持ちである。

軽い噺を、と思って取り上げたのだが、「新・ぐつぐつ」、しみじみと深いですね。
ちなみに、新宿末広亭のトリで「新・ぐつぐつ」を聴いた際、マクラで円丈師、「今日はおでん落語の最高傑作をお届けします」と語っていた。

 

噺家と万歩計

私は昨日、満員の新宿末広亭に行ってきた。
円丈師の「噺家と万歩計」を聴かせていただいた。続いてはこの、いい意味で本当に軽い噺を。
末広亭、主任の古今亭志ん弥師を目当てにではあるのだけど、円丈師を聴きたかったという理由はかなり大きい。
円丈師、台本を載せる釈台がすっかり板につきましたね。昔からそうしているかのような。
浅草では同じ噺でバカウケしたということだった。途中で客の意見を聴いてネタ変更しようとしたくらいで、新宿の客はもうひとつだったのかもしれない。それでもちゃんとウケてたと思いますが。
よく使うマクラ、浅草演芸ホールと4階のストリップ劇場とを間違えた客から「早く脱げ!」と声を掛けられたというのを振っていたのだが、「あとで訊いたらぬう生とヌードショーを間違えた」というオチが抜けていた。
このあと名古屋弁ネタに移ったのだが、意図的に抜いたのか忘れたのか・・・まあ、なんでもいいや。

「噺家と万歩計」、私は初めて聴いた。「噺家もの」の落語である。そんな言葉があるか知らないが。
「噺家」が出てくる噺は、たまにある。幇間や講談師が出てくる以上、噺家が落語の中に出たって不思議ではない。
幽霊役で前座の噺家が出るのは「不動坊」。
今では珍しい噺、「今戸の狐」では初代三笑亭可楽の弟子が主人公。
先代林家正蔵(彦六)の新作で、正雀師が掛けている「年枝の怪談」では春風亭柳枝の弟子が主人公。
新作落語においては、「老人前座じじ太郎」「スーパー寿限無」「赤いへや」「自殺自演」など、噺家が主役の噺は多数ある。
新作落語のパイオニア、円丈師にも多数ある。私は「日本の話芸」でやっていた「寄席沈没」、それから「悲しみの大須」、「ランゴランゴ」くらいしか聴いたことがない。「円丈落語全集」1巻には、「前座生中継」「寄席にも奇妙な物語」が収録されている。

「噺家と万歩計」は、噺家の師弟愛を描いた噺だ。やる場所によって全くウケ方が違うらしい。
運動不足で医者から叱られている噺家のために、二人の弟子が競って師匠に尽くす。弟子の名前が、二ツ目の「一番丈」と前座の「二番丈」。
師弟揃ってちょっとズレている人たちで、なぜか、老齢の師匠に替わって「万歩計の歩数」そのものを上げることに全身全霊を傾ける。
「説明書をよく読んでみたが、他人が代わりに使ったら効果がないとは書いてない」という決めつけが爆笑。
さらに、弟子たちが替わって万歩計を使うことで、なぜか師匠にもその効果が生じてくる。弟子が落語の稽古をしながらウォーキングしたところ、師匠がいきなり「真景累ヶ淵」を覚えてしまう。弟子は「子ほめ」を稽古したのに。

弟子たちは、真打にならないうちに師匠に死なれると、別の師匠につかなければならない。そうなったら、外様の弟子としてつらい思いを味わわなければならない。だから困るのである。
そのために師匠の健康に気を遣う、ということにはなっている。
だが、直接は描写されないものの本当は違う。弟子たちは師匠のことが好きで好きで仕方ないのである。だから、競って師匠にハマろうと努力する。
師匠も弟子思いで、競う弟子たちに「兄弟喧嘩は止めなさい」と諭す。
この隠れた関係が見えてくるので、落語界の師匠と弟子の物語が好きな私は大変嬉しかった。
円丈師の弟子たちはよく、師匠の悪口を高座で言う。天どん師など、本当に師匠にハマれず、徹底して避けていそうな雰囲気を漂わせている。
師匠のほうも、ずいぶん弟子を叱るらしい。「弟子を叱る師匠なんてイヤだ」と言って一切弟子を叱らない春風亭昇太師を見習いたいと言っているが、それでも叱ってしまうようだ。
でも、円丈師は破門なんてしない。ひと一倍弟子思いのようだ。弟子のほうも、師匠の悪口を言えるのは健康である。親と一緒だもの。
そんな噺家の世界が垣間見え、とても気持ちのいい噺でした。
現実世界でも円丈師、「ふう丈」「わん丈」の二人の二ツ目が真打昇進するまでは頑張らねば、という気持ちが強いようだ。

新作落語を世間に知らしめるため、「古典落語」と徹底的に闘ってきた円丈師だが、一方で「落語」の世界そのものには、芯まで浸かっている人なのだということがよくわかる。
師匠圓生のことも、冷静な視線を持つ一方で、愛してやまなかったようだ。だからこそ、怒りが先代円楽に向かい、「ご乱心」を書かせる動機になったのだろう。

円丈師について、まだまだ続けるネタがあるのですが、寄席で気持ちよくなったところでいったん筆を置きたいと思います。

 

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。