水曜日に、「日本演芸若手研精会」という、二ツ目さんの会(お江戸日本橋亭)に行ってきた。
落語には、これ以上ないくらい満足した。明日からこの会について書きます。
だがその会で、ひとつ許せないことがあり、これを先に書くことにする。運営・演者の問題ではない、たったひとりの客についてである。
当ブログでは、客のマナーについては結構厳しめにいつも記述している。
拍手や中手、掛け声、笑い方、メモの取り方について。
落語を聴いて笑うのは大変いいこと。だが、ごく普通に笑えない人がいる。噺家さんのクスグリにいちいち拍手をするという、まるで間違った作法を学んでしまう人もいる。
だからといって、落語を聴きにいってみたい初心者をビビらせる気などまったくない。なにも、伝統芸能を聴くための堅苦しい作法について述べているわけではないのだ。
それに、ちょっと痛い程度のレベルなら、間違っているとまで断じない。「野暮」だと言って済ませることにしている。先週太田で聴いた掛け声もそのレベル。
あたりまえに生きていて、日本人らしく周りに気を遣う人なら、落語のマナーなんて難しくもなんともない。
あたりまえでないものが、たまに客席に現れる。その異常性を糾弾しているだけだ。
自我が肥大した人が、あたりまえでないモンスター客となる。自我の肥大化とは、「演者に自分の存在を気づいて欲しい」とか「演者のために一生懸命笑ってあげたい」、あるいは「俺は落語に詳しいんだ」とかそういうもの。
今回の日本橋亭に現れたのはたったひとつ、「フライング拍手」である。
噺家さんが、古典落語のサゲを言う最中に拍手をするという、わけのわからない客がいた。非常にレアな、そしてモンスターな客である。
顔は見ていないのだがひとりの客が、春風亭一花さんのたいこ腹、「皮が破れて」で拍手を始める。どう考えても、そこで入れると決めた拍手だ。
その次の桂宮治さんは、ちゃんとサゲないという工夫に出た。賢い人だから、フライング拍手を警戒したのかもしれない。
入船亭小辰さんは珍しめの「団子坂奇談」なので、拍手のフライングは無理。
だがその後、古今亭志ん吉さんの熊の皮では、「女房が」で拍手。トリの春風亭昇々さんの明烏では、「大門で」で拍手。
フライング拍手客、そんなにいる存在ではない。以前、両国でトリの三遊亭竜楽師がサゲを言い終わる前に手を叩いた客を見たくらい。そのときも不快だったのだが、今回は複数回やりやがった。
フライング拍手で演者が喜ぶと思っているとしたら人として壊れている。
これをやる理由は、俺は古典落語を知り尽くしてるんだぜという、周りへのムダなアピールによるものと推察される。
そんなもん、みんな知ってる。誰も尊敬したりしない。
うちの小学生の息子のほうが、たぶん貴様よりよく知っている。うちの息子はバカじゃないし、演者をちゃんとリスペクトしているので、フライング拍手なんかしない。
ちなみに、サゲた直後の拍手というものは、私は別に非難していない。噺家さんがサゲたのに客席が気づかないと、ちょっと変な空気が流れることすらある。
他の客と拍手のスピードを競うような仕方だと、これも強い自我の現れだから、さすがにどうかと思うけど。
とにかく、サゲた直後の拍手で変な感じになった経験はない。先日、サゲた柳家小ゑん師がまだ挨拶しているのに手を叩いた人を見たくらい。
音楽会のブラボーマン、これはまあ、自我の肥大化が見られるからややいやらしい存在ではある。でも、ちゃんと曲が終わってからのブラボーは、お約束として別に誰にも嫌がられはしないだろう。
だが、最後の一音が続いているのにブラボーを言ったらどうなる。台なしだ。
みんな知ってる古典落語のサゲの効能を、私は今度「丁稚の落語論」で書こうと考えている。
知っているサゲに掛かったとき、なんとも言えず気持ちが高揚する。その気持ちをしっかり分析すると、とってつけたように思えるサゲの効能がまたひとつ深掘りできると思う。
だがそこに、サゲを先に言うキチガイ客がいたらどう思う?
フライング拍手も、サゲを先に言うのと同じぐらいの暴力性を持っている。
書いたこの内容が、当人に伝わりますように!
怒りを吐き出したので多少すっきりしました。明日からは、楽しかったことだけ書いていきます。