二松学舎大学落語シンポジウム

東京かわら版は熟読しているつもりだが、情報量が多過ぎ、見逃していることもある。それが今回。
息子が街でたまたま見つけてくれた、二松学舎大学のシンポジウムである。三遊亭兼好師匠の母校ですな。
千代田区だけど、神田連雀亭付近の掲示板には出ていなかった。
無料落語愛好家としては見逃せない。せっかくだから行ってみましょう。
「東の落語・西の落語」というタイトルが付いている。落語はネタ出しで、桂文治「八五郎出世」と、林家染左「饅頭こわい」。
上方の染左師匠についてはあまりよく知らないが、上方落語屈指の大ネタ、饅頭こわいがネタ出しとはいいチャンスじゃないか。
シンポジウム、落語以外の部分はどんな感じだろう。落語を目当てにゆっくり行こうかとも思ったのだけど、結局開演に間に合った。
寄席に行くときは持たない、ペンとノートを持参していく。ノート取りましたよ。
ただし落語の高座の最中は、メモ取らない。主義主張というほど立派なものでもないけど、落語に関してメモ取らなくてもいろいろ書けることは、このブログで実践しているつもり。
二松学舎大学の立派な校舎の地下にある、立派な階段状のホールである。高座がしつらえてあり、すでに見台と膝隠しが出ている。
大きなホールだが、席は思いのほか埋まっている。みなさんどこからやってくるのかな? もちろん学生さんや、入学予定者も来ている。

こんなプログラム。

  • 落語の魅力と課題
    多田一臣・渡邊了好(ともに文学部教授)
  • 演目解説
    中川桂(文学部教授)
  • 饅頭こわい 林家染左
    (仲入り)
  • ディスカッション「落語:江戸と上方」
    桂文治・林家染左・中川桂
  • 八五郎出世 桂文治

落語のほうもたっぷり時間を取っていてよかったのだが、それ以外のトークも、意外なぐらい面白かったのでした。アカデミック丁稚。
まず、御年70歳の教授ふたりの対談。オチケン出身の助手が司会をする。
司会の助手、オチケン時代の名は、「香取家線香」。高座では、「線香だけにキンチョーしております」と挨拶していたと、マクラから。
二人の先生は、落語ファン歴が長い。東大出身の多田教授は、若い頃ホール落語を中心に聴いていて、落語とのリアルタイムのつきあいは先代正蔵で終わっているらしい。
先代正蔵の熱烈なファンの多田先生、膨大なオープンリールの正蔵のテープを、今でも寝る前に聴いているそうな。
浅草や上野界隈で育った渡邊教授は、韓国・延世大学を出ている。こちらの先生は、寄席のほうが好き。
渡邊先生によると、寄席はビールなんだそうだ。ホール落語はワイン。大衆的なビールのほうが好きなんだって。私と気が合うかもしれない。

落語を聴いてきた歴史が対照的な二人の教授だが、揃って先代金馬がお気に入りとのこと。今では決して評価が高いといえない先代金馬こそ、名人だと。
そしてまた二人揃って、ラジオの落語は素晴らしかったと。テレビ時代になったら、これがびっくりするほどつまらない。
野球中継も、金田、稲尾など、ラジオのほうが面白かったって。
もちろん、寄席で本物を聴くのはいいのだ。テレビは、ラジオに存在した想像力や妄想だけを、単に奪ってしまった。
先生方の発言は単なるノスタルジーからのものではなくて、実際にそうかもしれないですね。堀井憲一郎氏も書籍で同じことを書いている。
私なんかは、ラジオの落語の前に、幼少の頃からテレビで落語を聴いているので、テレビへの違和感はない。再現性になど一切期待していないで聴いている。
そんな私ももちろん、ラジオ、CDの落語による想像力の喚起はいいなと思う。
渡邊先生は、金馬から進んで、小勝、圓鏡、桃太郎、さらに小南から上方落語へと進んで行ったそうな。すべて先代。

司会からの質問で、落語はこの先、どうやったら滅びないでしょうかと。
渡邊先生は現代の落語もよく聴いているので面白いコメント。現在の昇太、喬太郎という噺家さんはとても面白いが、「音階が変わった」という認識でいる。
それはそれでいい。だが、笑福亭三喬だった松喬師がいい。松喬師は、音階を変えない昔ながらの落語をやっている。こうしたものも大事にしたほうがいい。
松喬師なら、私も大好きだ。先生、言語学者らしく上手いことをおっしゃる。
そして外国人が落語の聴き手になり、登場人物になっていくことでさらに落語は変わっていくと思うと渡邊先生。
先生は語っていなかったが、それってまさに三遊亭白鳥師の落語の世界じゃないかと私は思う。インド人のそば屋が出てきたりする。
先生さらに、上方落語の「代書屋」で、先代米團治が掛けていた朝鮮人の渡航証明のくだりを引き合いに出す。師匠トリビュートで、米朝がこれを掛けていた。ふんふん。
この部分にこそ落語の発展の可能性があるのだということ。
この部分、聴衆はよくわからなかったんじゃないかな。私は代書屋のこのくだり、聴いたことはないが存在は知っている。渡航証明を、トッコンションメンと発音する朝鮮人を笑う内容だったはずである。
今では表面的に差別だとされてやれないくだりだが、米朝門下の桂米二師が意図的にやると聞く。
白鳥師がやってくれないかな。アパートの部屋の中に38度線を引く白鳥師なら、誰も差別だのなんだの言わないと思うよ。それこそ落語の効能。

たまには、他人の落語観を聴くのも悪いもんじゃないと思った。
無料で落語が聴けるのはありがたいけど、解説なんかが入ると味消しになるかもしれないと警戒する気持ちも正直あった。だが、出てくる人全員が、そのあたりのさじ加減をよくわかっていらっしゃるのですな。

第二部は大阪出身の中川桂教授。なんと、この日の出演者、林家染左師の実のお兄さんだそうな。プログラムに書いていないところが面白い。
司会にそう紹介されて、思わぬ事実に湧く客。私も驚いた。
兄弟そろって阪大文学部の出なんだな。インテリ兄弟だが、進む道がそれぞれ違うところが面白い。教授のほうは芸能史が専門だから、まるで違うわけでないところもまた面白い。
噺家のお兄さんらしく、軽妙なトークで盛り上がりました。どうして今回、染左が呼ばれているのかわかったでしょう皆さんと。後で話していたが、二松学舎大学オチケンの顧問も務めているそうな。
演者の、桂文治と、上方の林家の名前についてそれぞれ解説してくれる。
文治は桂の開祖であるが、東京に移っている。これは、初代文治の妻をめとった江戸の落語家が、江戸に戻って三代目を名乗ったためである。
上方の林家については、私もよく知らなかったのだが、江戸由来、初代正蔵の孫弟子から出ている本来の林家は一度切れている。五代目笑福亭松喬が二代目林家染丸を名乗ったところから現在につながるので、上方の林家はもともと笑福亭の系統であると。
現在の林家はきっちりしている芸なので、笑福亭とはだいぶ違う。売れてるのは笑福亭だがと。上方のお客だったらここ爆笑でしょう。
この日の予定演目についてもさらっと解説。今はフルでやらない「妾馬」のもともとのストーリーであるとか。
テーマである江戸落語、上方落語の違いを簡単に説明すると、江戸はストーリーの統一性を重視し、洗練された芸である。いっぽう、上方は部分で笑わせれば勝ちという芸なので、全体の統一感は気にしない。そして、整合性の取れていない噺が多いと。
確かにこの日ネタ出しの饅頭こわいも、3つのエピソードをつなげた、ある種不統一の噺ではある。
先生の話に出てきたわけではないが、「小倉船」なんかはさらにエピソードのつなぎ方がむちゃくちゃですね。私は大好きだけど、このイリュージョン溢れる噺は江戸にはない。

林家染左「饅頭こわい」

この後、弟の染左師匠が紹介され、落語に入る。開口一番「弟でございます」。
わろてんかで落語指導をしていたマクラ。ドラマの監修をすると、チョイ役でドラマに出してもらえるのに、なかなか話がまわってこない。
噺家がチョイ役でよく登場したのは、昭和元禄落語心中もそうでした。
噺家に稽古をつける役の話もあったのだが、後頭部しか映らないとのことで、立ち消えになった。
クランクアップ間際になってようやくチョイ役が廻ってきたのだが、太鼓を叩く所作で、手だけのアップだったと。
それでも、エキストラじゃないんで、ちゃんと役名が付いたんです。「従業員1」。
そして、小拍子と張り扇の使い方実践を、「東の旅」で再現。
中手が飛ぶと、東京のお客さんはありがたいですねと。
この師匠、初めてなので比較はできないのだけど、この日の饅頭こわいについてはたっぷりと満足いくものでした。ちょっと噛む場面があったけど。
演者が前に出過ぎない、端正な落語という印象。しっかりと物語の世界を作り込んで、演者はやがて消え、登場人物相互が楽しく遊ぶ芸。
前半の好きなもの、嫌いなものの言い合いは、登場人物に個性がさしてなく、むしろ江戸落語によくあるワイガヤっぽい。だがそこから先が、上方落語の独自性溢れる部分。
狐に化かされて馬のケツの穴を覗かされるエピソード、そしておやっさんの幽霊のエピソードこそ、この長講の肝である。不気味な場面はしっかり不気味に、怖い場面はしっかり怖く描く。語り手となるおやっさんの造型も見事。
怪談に見事に引き込まれる客。
それら肝の部分も、全体の構成としてはサブエピソード。だがもちろん、饅頭のシーンもたっぷり。
薯蕷饅頭、栗饅頭、最中など饅頭の中に、551蓬莱が混じっていた。東京でも551蓬莱、意外なぐらいウケますな。
ちなみに、上方は爆笑で東京は粋、大雑把に分ければそんな感じだが、そうはいってももちろん、ひとりひとりの演者の立ち位置は千差万別だ。この日の二人の演者を見れば、どちらかというと文治師のほうが爆笑で、染左師のほうが粋な感じ。
この点、思いのほかバランスが取れている気がする二人。

ディスカッション

仲入りの後はディスカッション。ここで初めて桂文治師匠が登場だ。
中川桂先生が司会で、楽しいトーク。最終的には、東も西も、違いはあるが最近は交流が盛んで接近している。どちらも落語には違いないという結論。
まあ、そうですよね。
私だって、地理的条件でどうしても東の落語を聴くのが中心になってるけど、別に江戸落語ファンじゃない。あくまでも落語ファンだと自認している。そして、落語の歴史を振り返ろうというときは、上方落語のことも当然に頭にある。
話は、与太郎と喜六の違い、時そばと時うどんの違い、ネタ出しの八五郎出世のように、江戸ならではの侍の出てくる噺についてなど。
与太郎の人間関係は、おじさんがメインで縦である。喜六の人間関係は、清八だから横。
中川先生によると、喜六というアホは、ときどき狙ってボケている。漫才のボケ役のイメージらしい。
だが弟の染左師匠によると、別にそんなことはなくて、笑わせようと思って笑われる奴なんだということ。
文治師は、上方の「時うどん」はすごく面白くて、昇太兄なんかはこのスタイルで時そばをやっている。どうして、逆に西の人なのに時そばスタイルで時うどんをやるんだろうと疑問を発する。
時うどんは、おなじみの喜六清八が出てくる。翌日、喜六ひとりで再現するところが笑いとなる。時そばは、最初からひとりなので不自然だと文治師。文治師の時そばはすごく面白いけども。
染左師が受けて、時そばスタイルの時うどんは、故人の桂吉朝が始めたもので、そこから広まっているのだと。
時うどんのほうが笑いは大きいけども、時そばのよさもあるわけだ。
さて、東京落語の8割は上方由来だが、最近は東京の噺であり、そして廃れてきている「湯屋番」「野ざらし」が逆に上方で流行っている。染左師と中川先生いわく、上方の人のツボにマッチするんだろうと。
かつて東京の寄席で取り合いになっていた噺が全然出なくて、文治師は寂しいみたいだ。俗にいう、ひとりキチガイ噺である。
あるときから、客にまったくウケなくなった。妄想を客が許容しなくなってしまったと。そんな噺より、客はストーリーの充実した噺が聴きたいのだと。
これについては、文治師の実感どおり一時期よりは減ったろうが、いっぽうで復権している実感も私にはある。同じ爆裂妄想噺の「だくだく」、これは上方由来だが、よく聴くしね。
昭和元禄落語心中のおかげで、野ざらしも出るようになっているのでは。少なくとも落語協会では、私も最近結構聴いてます。取り合いにはならないけど。

最後に文治師、落語は挨拶もできない職人たちを教育する要素もあったと。
子ほめで挨拶の仕方を学び、高砂や、とは言っていなかったが婚礼のことも学んだのだと締めて下さった。

落語の出番がある文治師が先に下りて、兄弟トークが数分続く。楽しそうですね。
噺家の着物について。いつも黒紋付の文治師をはじめ、東京は衣装が地味。いっぽう、上方は色紋付が多いと。
弟の染左師のパイプ椅子を、師匠どうぞみたいな感じでお兄さんが片付けようとして笑わせる。でも染左師は自分で片付けていった。
5月上席の池袋演芸場は、例年文治師がトリだが、その芝居には上方枠がある。5日・6日はこの上方枠に染左師が出るので、ぜひどうぞと案内が入る。
いいな、行こうかな。実際、おととしは文治師の昼トリ聴いてから、夜までいたのだ。

ちなみに質問コーナーがあったとしたら、私は訊きたいことがあった。

  • 上方の林家が海老名の林家に挨拶に行くのは、義務としてなのか、礼儀なのか
  • このたびの桂小文枝襲名において、桂宗家である文治師のところに正式な挨拶はあったのか

どうなんですかね。どうあらねばならないではなくて、どう考えているかの話と思う。
質問コーナーはなかった。

桂文治「八五郎出世」

さて桂文治師は、いつものように師匠である先代、十代目文治を紹介。
残念なことに、15年前小遊三師匠に暗殺されましたと。以前は、歌丸会長に毒を盛られたと話していたが、歌丸師亡き後は犯人が小遊三師に替わっている。
そこから、噺家の身分に話を持っていき、江戸時代の身分差別へ。どんな噺でも、師匠ネタから持っていけるのである。

文治師の八五郎出世(妾馬)は、春風亭小柳枝師から来ているそうである。
昨年、瀧川鯉橋師で妾馬を聴いたが、落語協会の人とずいぶんスタイルが違っていた。こちらもどうやら出どころは一緒のようで、この日の文治師のものによく似ていた。
門番の爺さんや、三太夫さんが田舎の人でやたらと訛っている点をはじめとして。三太夫は四角四面ではあるが、別に堅苦しいキャラとして描かれるわけではなく、記号的。
文治師のもの、基本的には芸協のものらしく爆笑滑稽噺である。ふんどしまであつらえてもらい、大家の前で着替える八っつぁんなんて描写がある。そして、八っつぁんの局部を眺めて喜ぶ婆さんとか。
だが恐らく文治師、ちょっと人情噺の風味を加えているようだ。
同郷の市馬師はじめ、落語協会の師匠方との付き合いが多いからかとも思うが、小柳枝師のもの自体が、聴いたことはないけどそんな感じにも思える。
人情は抑えめで、ピンポイント。だが、それがかえって兄妹愛を強く感じさせるではないか。
文治師のWebコラム「噺の穴」にも、小柳枝師に「平さんは妹いるの?」と訊かれたとある。妹がいる噺家がやると、噺の重みが違ってくるんだとか。
よく聴く噺ではあるが、人情噺に完全に振れてしまうでもなく、実にバランスのいい文治師の八五郎出世。
文治師の噺は、すべての登場人物が非常にナチュラルであるという特色がある。大家から殿さままで、噺の中で役割を忠実に果たしており、役割からはみ出たり、マッチしなかったりする人物造型が一切ない。
みんな、主役の八っつぁんを一生懸命盛り立ててくれている。聴いていて、つっかかる部分がまったくなく、流れるように噺が進んでいくので気持ちがいい。
これは絶品である。長講でもって実にいい噺が聴けた。

大満足のシンポジウムでありました。二席の噺だけでも満足なのに、それ以外も充実。
二松学舎大学文学部の皆さま、どうもありがとうございます。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。