たけ平師の妾馬に対するこだわりは、「身分」というものの悲しさにこだわり、八五郎にこれをたびたび嘆かせていること。
直接出てこない母親にも、身分のおかげで孫に会えないと嘆かせる。
門番も、「町人らしいおかしな名前」と八五郎を嗤う。
このこだわりに関しては、現代人としてはわかるものの、落語好きとしては正直よくわからない。
古典落語は時代背景は江戸・明治であっても、描くのは現代の人情であることが多い。その点からすると、現代において身分差別の問題を持ってくるのも間違いとはいえない。
だが、そうはいっても舞台はちゃんまげの時代。
町人の側からすれば、町人の分際に過ぎないのもまた確か。八っつぁんや母親の頭に、四民平等なんて考えが浮かぶ余地すらないわけで。
身分の問題に触れず、八っつぁんの人間としての肚を殿様の前に見せつけるという部分こそ、この噺がずっと掛けられてきた眼目ではないかという気がするのだが。
それでもって、人間としての真の対等さを描写するほうが得策な気がする。
なんでこんなに江戸の町人が身分にこだわるのかと思って、たけ平師の妾馬を何度も聴き直しているうちに、今度は八っつぁんが大家のところの婆さんを怒らせたままなのが気になってきた。
ご老女様にも乱暴でフォローがないし。若い女性には「ねえちゃん」と呼びかけてあろうことか口説きに掛かっている。
これじゃ、「身分差別に憤っているくせに女性は差別する八っつぁん」だ。
もちろん、私はそんな聴き方をしたりはしない。
落語は本気で突っ込むと現代感覚に相いれない部分が多い。だからこそ、最初から変なところに問題意識を持たないほうがいいと思うのだけど。
まあ、たけ平師も、左翼革命落語をやろうっていうんじゃない。師なりに、八五郎の思いに迫った結果として現れる、身分の問題なのだろう。
八五郎がその後武士に取り立てられて出世することを、唐突に描かないためかもしれない。
ちょっと八っつぁんに、お大名に対する敬意がなさすぎる気はする。これもまた、身分問題とワンセットと思われる。
昨日述べたが、たけ平師の描く、主人公八っつぁんのキャラクターはいい。
次に、重臣の三太夫をどう描くかだ。
石頭の堅苦しい、人間味の薄い人物として描かれがちな三太夫について、たけ平師は非常にあっさりした描写にしている。
ここに、たけ平師の問題意識が感じられるのである。
三太夫は、八五郎の野性味と対極の役割を果たすことは誰にでもわかるだろう。だが、紋切り型の三太夫を描けば描くほど、八っつぁんとは対立してしまう。
でも八っつぁん、みんなが好きになれる人物でないと、この噺では活躍しづらい。
三太夫を悪役のまま登場させ、退場させても構わないのだけど、そうすると噺のいいムードが部分的に壊れてしまう。崩れたところから噺は倒壊しかねない。
三太夫を引っぱたく八っつぁんにも、フォローを入れる必要がある。これは、噺の流れを分断しかねない。
となると、あとは三太夫を役目の上で固い、本当はいい人として扱うか、記号的に描いてしまうかである。
たとえば柳家小せん師は前者を選び、たけ平師は後者を選んだ。
三太夫は、慣れない八っつぁんに立ちふさがる障害物に過ぎず、人間としてはさほど描写されないので、噺の流れ上つっかかるところがない。
既存の妾馬が好きな人からすると、三太夫にもうちょっと活躍してもらいたいと思う人もいるかもしれない。でも、これでいいじゃないか。
ちゃんと八っつぁんの行動原理に影響を与える機能は持っているのだから。
妹、つるに駆け寄りたい八っつぁんを止める三太夫は、もはやセリフの描写すらされない。
たけ平師の八っつぁんは、ご老女に向かって「婆さん、つげ」なんて命じるキャラだから、いい奴だが決して丁寧な男ではない。それの活かし方としては、最適の三太夫。
あと、殿様は八っつぁんと三太夫の絡みを、にやにや眺める懐の広い人。
久々に同じ噺を何度も聴き返した。
何度聴いても楽しめるのは、間違いなくいい噺。