「ラジ関寄席」を聴くと、当代桂春團治師が「もう半分」を掛けていた。
三遊亭圓朝作で、落語好きならご存じでしょうが上方では誰もやらない噺だと断って。米朝師匠だって、仁鶴師匠だってやってなかったと。
それにしても「圓朝」のアクセントも、上方落語家に発声させると「園長」と同じになるね。
やんちゃな兄ちゃんを意味する「ヤンキー」のアクセントで喋ればいいんだけど。
私はたびたび書いてるが、上方落語の独自性など存在しないと考えている。
東も西も、落語は基本同じで、同じ土俵で勝負しているものと考えている。上方落語家が時として強調する独自性も、一切信用していない。
どちらの噺家であっても、だから全くフラットに眺めている。上手い人は上手いし、下手はヘタ、それだけだ。
もともと古典落語の大部分は上方由来であるが、江戸でのみ発達して、本家では滅びかけてしまった噺も多い。
最近は、先のもう半分もそうだが、東京落語が積極的に上方に移入されている。
私はいいことだと思っている。実際、噺が増えて活況を呈しているはずである。
そして西に持っていったからといって、イメージが著しく変わるものでもないのだ。
まるで違ったように聴こえる人もきっといるのだろうけども、私はそうではない。
東京落語を大量に持ってきたら上方落語らしさが消えるなんてこともまるで思わない。
先日、桂佐ん吉師が、芸協新作の「妻の酒」をまさに古典落語として掛けているのを聴き、いたく感銘を受けた。
円丈以降の新作落語激変により、寿命を迎えてしまった芸協新作も、上方で古典化される余地があるのだ。
東京のこんな噺、ひとつどうですかというのを書いてみます。
岸柳島
演題は「巌流島」でもいいです。
上方にもさむらいの噺はもともとあるのだ。代表例が「宿屋仇」。
最近は井戸の茶碗なんてよくやっているようだが。
米朝も、侍が演じられなければいけないと書き残している。
岸柳島は渡し船の噺。江戸時代の大坂も、水の都であって渡し船はたくさんあったので、移入は容易だと思うのだ。
船の噺ももともと多い。野崎詣り、兵庫船、遊山船、小倉船、三十石船。
そもそも渡し船に、無関係のさむらいが2人乗り合わせるなんて大坂では少なかったかもしれないが、でも旅のさむらいにすればよかろう。老侍はご浪人で。
こういうスカッとする噺、現代の関西にも好きな人多いと思いますよ。むしろ東京より多いと思う。
松曳き
やはりさむらいものは手つかず、でもないのだが、宝の山だと思う次第。
松曳きは、出てくるさむらいがみな粗忽というすごい噺。
殿も家老もみな粗忽。
東京でも比較的マイナーで、粗忽ものでも出番は少ないのだが、だからこそ。
いいでしょ、粗忽の集った大坂屋敷を舞台にした落語。
まいどおなじみ清八っぽい植木屋たちを描くことで、前半は描けるだろう。
粗忽の使者もいい。
こちらはわりとすんなり移入できそうに思う。留めっこが清八になる。
知らないだけで誰かすでにやってそう。
猫と金魚
前から上方に持っていって欲しいと思っていた噺。のらくろの田川水泡作。
もっとも調べてみたら、東京の噺家とつきあいの多い笑福亭たま師がすでにやってるみたい。瀧川鯉朝師あたりからかな。
でもいいでしょう、どのみち東京の師匠にじかに教わったほうがいいわけで。
改めて上方のどなたかにやってみて欲しい。
先に芸協新作を古典化した佐ん吉師のごとく、上方に移すことでもともと新作落語である演目に、古典の魂が宿りそうなのだ。
ねこきんは、古典落語にいないタイプのアホを描いている点が画期的。
毎度おなじみアホの喜六は、「金魚鉢と金魚を分ける」といった、難しい間違いができる人ではない。
王子の狐
王子の狐はもともと上方落語の「高倉狐」らしいが、聴いたことはない。
改めて、東京で洗練された王子の狐を持っていってもよかろうと思う。
こんな例はちょくちょくあって、現在上方で「野ざらし」はわりと人気だと思うのだが、「骨つり」という上方の原型はあるのである。
もっとも、演題は高倉狐に戻さざるを得ない。
狐に化かされる噺はもともと、東の旅の一編「七度狐」があって、上方落語にも親和性が高いもの。
あと紋三郎稲荷もいいと思う。最近、東京で掛けられる頻度が上がったのではないか。
これは主人公を別にさむらいにしなくても成り立つ。
あと思い出したが、上方落語に「稲荷俥」という、紋三郎稲荷に似た一般人が人を悪気なく騙す噺がある。
権兵衛狸
狐だけでなくたぬきもよろしく。
上方は狸より狐が好きなのだろうか。狸の噺に「狸の化寺」なんてあるのだけど。
あと「まめだ」。これは新作だが。
権兵衛狸、東京でもそんなにかからなくなったけども、のんびりした噺で私は好きだなあ。
舞台は田舎なので、上方に持っていくのは実に簡単。
にらみ返し
暮れの借金取り撃退の噺。もっとも、東京でも掛かる噺ではないけれど。
元は上方落語だそうだが、いかにも江戸っ子の噺になっている。
でもビジュアル落語で、面白いと思う。
ひたすら人をにらむ落語。桂吉弥師なんか似合うのでは。
麻のれん
上方にも按摩の噺、盲人の噺はないわけではないが、麻のれんはないのでは。
これも頑固な江戸っ子按摩の噺だが、その本質はどこでも通用するものだと思うのだ。
上方落語家もぜひ宝の山を掘り出してください。