古典落語を編集なしに掛けてはいけない

先日の国立、芸協の芝居はなかなか刺激的だった。
春風亭昇太師を現場で聴いたのは本当に久しぶり。テレビでは落語もよくお見掛けするけども。
昇太師の「不動坊」の編集に圧倒された。
さらにこの芝居、仲入り瀧川鯉昇師の「餃子問答」も、やはり編集にうならされた。
餃子問答というタイトルに騙されそうだが、ほぼ蒟蒻問答なのである。蒟蒻問答としての編集の巧みさに驚いた。

古典落語の同じ噺を何度でも聴けるのは、演者の編集あってのことだ。
古典落語は教わったまま演じるのではない。前座の頃は一言一句変えるなと言われたりするが。そこまでである。
二ツ目になったら、教わった噺もどんどん自分に合わせて変えていかなければならない。
実際には前座だって気の利いた人なら、師匠方に叱られない程度に工夫を凝らしているものだ。

聴き手の頭には、古典落語のぼんやりしたテキストが刻まれている。
もとより一言一句同じテキストは存在しないので、ぼんやりしているのは当然のこと。
落語を喋ってみたい人が古典落語の台本を探して検索しているが、そういうものはない。
速記として書き残されたものは台本ではない。
「柳家と古今亭と三遊亭では噺が違う」という知識を得た人が、何パターンか台本があると理解するかもしれないが、そういうことでもない。
落語のテキストは、関係者誰にとってもぼんやりしているものだ。唯一、演者が自分で書き起こして覚えた台本はあるけども、これは他人が参照するものでもない。

そんな、必然的にぼんやりしているテキストの上を、なぞられて快感が生じることはある。大工調べの啖呵であるとか。
決まりきったセリフ回しでなくても、この噺にはこれ、という独自のフレーズであるとか。
いっぽうで、裏切られることで快感が生じることもまた多い。今回もそうだった。
あ、そうくるの? という。
そうくるの、は展開であり、視点の変化であり、クスグリ追加であり、そして省略である。

省略も、いつの間にか行われる場合もあれば、有名な展開やフレーズをカットしてしまう場合もある。
いつの間にか省略が行われる場合は、同業者も気づかないまま時間がやけに短かったりする。この仕事はもちろんすばらしいのだが、なにしろ誰も気づかないので聴きながら感じるインパクトは薄いかも。
大胆な省略があると、時としてしびれる。
今回でいうと、昇太師は長屋トリオの悪口を省略していたし、鯉昇師は主人公が餃子屋(本来はこんにゃく屋)の厄介になるくだりを大幅に省略していた。

昇太師は言わずと知れた新作派だし、兄弟子の鯉昇師もおもしろ古典の第一人者。ともに創作力は著しく高い。
古典落語も、創作力は絶対に必要なのだ。創作力があってこそ、編集ができる。
ちなみに、国立の番組トップバッターとして出ていた二ツ目の桂鷹治さんは、本寸法の一席。
だがこれも、もちろん編集を重ねて出しているのである。クスグリを大幅にカットするという手法で。
決して簡単ではない。クスグリをカットして、なにもなくなっちゃうことだってあり得るのだから。
なにかを残すのが、巧みな編集。

といっても落語の実力は創作力だけに現れるわけではない。
だから、他の要素が高いのに、創作力がさほどでない人もいる。こういうのは、二ツ目になって数年経過したころに明らかになる気がする。
口調がやたらいいのに、創作力に欠ける残念な人も。この場合、編集という作業がしづらいので、仕入れ先を工夫するしかない。

仕入れ先だけ工夫する人は、自力での編集ができないがゆえだいたい噺がもっちゃりしている。
そして恐らく、噺をクスグリ(ギャグ)でもって捉えている。
私はこういう芸を、「スタンプカード芸」と呼んでいる。二ツ目に多い。
脳内のスタンプカードに、自分で考えたわけでもないクスグリを喋るたびにスタンプを押す。
全部押し終わったら一席の終わり。
こんな演者に、考えなく入れられるクスグリのほうもいい面の皮である。先人が懸命に考えたのに。

スタンプカード芸をやる二ツ目さんは、自分で「ここがどうしても喋りたい」というのがないんじゃないかな。
噺を教えてくれる人が強調したかった部分を、そのまま仕入れてもそこには魂がない。
自分でふくらましたい部分がない噺を教わってどうしようというのか。

先日、古典落語のガワを残して、中を自由に作る手法を「ラジオ焼き」と命名した。
これはもう、大胆な創作力の発露であるが、常にそこまですることはない。
噺をよく分析し、自分の強調したい部分を主軸にして噺を作り直す、この見事な編集のテクニックについても、なにか名前を与えたいと思っている。

作成者: でっち定吉

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