隅田川馬石独演会@ばばん場(下・「お見立て」「お直し」)

汗を拭いてまた高座に戻ってくる馬石師。
「熱演するような噺じゃないんですけども」
その価値のある一席でした。

今日はせっかくですから残り2席、郭噺がやりたいですね。
郭噺もいろいろ差し障りがありますけども、残して行きたいものです。
吉原は遊女三千人御免の場所でして、なにしろ幕府公認ですから。
大仰ですけどあそこは城なんですね。

ここで働く男を若い衆なんて言いまして、年齢に関係なく若い衆です。
別名を牛太郎。
支払いがないと馬が出ます。

付き馬かな、と思ったら違う。
客の手が叩かれて、若い衆の喜助が顔を出す。客は杢兵衛お大尽。
喜瀬川がまだ来ねえ。呼んできてくんろ。

おや、この場面から始まるお見立ては初めて聴く。いろいろ工夫の余地があるものだ。
そして花魁は自分の部屋にいるのかと思うと、ひとりで客間にいる。

私はお見立て、郭噺の中ではそれほど好きなほうではない。
いったん嘘をつき出すと際限がなくなるという普遍的なテーマ。実に楽しいはずなのに、なぜか。
喜瀬川花魁が人として最低過ぎるのが、噺の外側に滲み出てきてしまうのかもな。
お大尽にストーキングされてるならともかく、自分で呼んどいて、カネに困らなくなったらポイだもんな。

でも馬石師の描く花魁も、若い衆の喜助も実にいい。
この人たち、人の中身がカラッポなのだ。
花魁にだって苦界務めの辛さもありそうに思うが、そんな人生の機微は微塵も感じられないのだった。
反射的に行動してるので、それに伴う反作用もない。
普通は、登場人物を立体的に肉付けしていくところだが、馬石師は逆の道を行く。
よく考えたら、師の得意な粗忽ものとも同じやり方。粗忽の釘だけは肉付けしていくけど。
人に強く押されると従ってしまう男の造形は、馬石師が一番だ。もっとも、トホホ感が出てこないところがまた独自。なにせカラッポだから。
カラッポの人たちが後先考えずに行動するさまはとても楽しい。

杢兵衛お大尽が、兄として喜瀬川を見舞いたいという場面がなかったので驚いた。
喜助は、花魁は病院に入院してますと対抗している。
面白さが落ちてないという前提があれば、こういう細かい変更は実に楽しい。

喜助がお大尽の訛りに合わせて「にゃーとります」(泣いております)は面白いが、さらにもうひとつ「入院した」が「ぬういんした」になる。
入院、なんて固い言葉だなと思ったら、仕掛けがあるわけだ。
ニューヨーカーこそ「ヌーヨーク」って言うから都会と田舎が逆だななんて関係ないことを連想した。
喜助は、「お大尽の後ろに花魁が!」と叫び、振り向いている間にお茶を目に付けるのだった。意外と大胆。
こういう味は、師匠とは明確に違うものだ。

仲入り休憩後もう1席も、廓噺と予告されている。

吉原の廓の中にはあるが、最下級の羅生門河岸など振って始まるトリの一席は、「お直し」でした。
志ん生が芸術祭大賞を獲った演目。トリビュートにはふさわしい。
およそ流行っている話ではなく、現場で聴くのはまったく初めて。
ただし、雲助師のもの(落語研究会)はレビューした。

五街道雲助「お直し」

お茶を引いている花魁を描写する。連日なのでおばさんにも謝り通し。自分の部屋に戻るだけ。
だが若い衆が優しくしてくれて、禁断の恋が始まる。
御法度の恋なのに、主人のはからいで夫婦揃って仕事を続けさせてもらう夫婦。
しかし亭主のしくじりですべてがパー。ドン底から蹴転(けころ)になって這い上がろうとする。

人にはしごを掛けてもらって始まる恵まれた生活を、自らパーにしてしまった亭主。
私には、この際の心境に興味がある。うっかりこうなってしまったではなく、自ら千住の女と博打に入れあげるのだから。
運命論的な描き方もできるだろうけど。
ただ雲助師も馬石師も、なぜそうなったかではなく、とにかくそうなってしまったところから始まるリカバリーを描いている。

お直しで描かれるのは経済的にだけではなく、心理的なドン底。
亭主は、すべて自分の責任なのにまだ腰が据わっていない。
いっぽうで、なにも悪いことをしていないかみさんの覚悟は半端ではない。
この点、中身がカラッポであるがゆえに楽しいお見立てとは、対極の廓噺。

大店を抜け出してきた左官を強引につかまえる。
客のほうは、化け物みたいな女しかいないだろうと思っているので大喜び。
お前を身請けしてかみさんにしたいとのろけ、かみさんはそれを全部受け止める。

「直してもらいなよ」の繰り返しでもって、ばばん場の客の半数は笑っていた。
なにも間違ってはいないのだが、私はもう、笑ってなどいられない。
夫婦のギリギリの心情が沁み込んできて、もう張り裂けそう。
客を取らされる羽目になったかみさんは、ひどい目にあっても、かつてお茶を引いていた自分に優しくしてくれた亭主に気持ちが残っている。
その切なさがたまらない。

師匠とまったく同じではない。
化粧したかみさんを見て「掃き溜めに鶴だ」と言うのは蹴転の客ではなく、亭主だった。

ギリギリの人間の生きざまを聴き、そしてスカッとした爽快感を手に、駅まで歩くのでした。
やはり馬石師は素晴らしい。

(追記)
お見立ての「ぬ」で始まる訛りを思い出したので、一部書き換えております。

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作成者: でっち定吉

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