柳亭小燕枝「意地くらべ」
仲入り前は、黒門亭が非常によく似合う小燕枝師匠。
たぶん私が、ここで一番多く聴いている噺家さんだと思う。
小燕枝師は、主任を取るとなると私のめったに行かない新宿か浅草。だから黒門亭で長講を聴けるとありがたい。
黒門亭の小燕枝師を聴いて、魂が揺さぶられなかったことは、私はない。
主任のとき以外は、軽い噺がいい人。それはそれで楽しい。
表で並んでいる際、楽屋入りする小燕枝師匠をお見かけした。そこらへんの小柄なお爺さんという風情であった。
だが、高座では威風堂々。常に期待を上回る高座を見せてくれる人である。
いつものように、「なんのおもてなしもできませんが」から、この日はマクラ短め。長講であることをうかがわせる。
珍しい噺、意地くらべだ。
小燕枝師匠の、日本の話芸のVTRが確か私のコレクションにあったはず。
明治の新作落語である。岡鬼太郎作。
三代目小さんから、四代目、五代目と伝わった噺。
珍しめの噺だが、私のバイブル「五代目小さん芸語録」にも筆が割かれている。
小燕枝師匠は決して押さない人。
登場人物のすべてが頑固者という噺の、そんな馬鹿なという展開の中から、人情がじわじわ噴き出てきて、もうたまらない。
別に人情噺ではない。
小燕枝師だって、そのつもりでやっているわけじゃないと思うのだが、噺の骨格に人情が強く漂うのである。
うっかりすると涙腺が緩んでくる。
いや、さすがにそれは聴き方がおかしいかもしれない。だけどこの感覚、わかる人にはわかると思うのだ。人間の「思い」を突き詰めたところに感動がある。
現在の私、恐らく「人情」を求めて落語に通っているのである。そこにこの噺がピタッとハマる。
手拭いの所作が見事。
八っつぁんは、手拭いの「50円の札束」を上手(うわて・客から見て右)に向けて返済する。
それを、隠居の際は下手(したて)に向けて突き返す。
左右に動く手拭いを見ているうちに、トリップしてくる。
実になんとも、たまらない一席でした。
三遊亭白鳥「座席なき戦い」
白鳥師を黒門亭で聴くのは初めてだったと思う。
古典か新作かなどという区切りとは無関係に、現代落語界を背負って立つ師匠だと思っている。その割にあまり聴いていない。
追いかけてでも聴かなきゃいけないと思うのだが。
黒門亭は、珍しい人と久々に会えます、と口を開く白鳥師。
先に出た鈴々舎鈴之助師のことである。
志ん朝が講評してくれる池袋の二ツ目の会のむかし話。白鳥、鈴之助以外に、菊之丞、菊志んなどもいた。
カミシモなど的確に指摘してくれる志ん朝だが、当時新潟だった白鳥師については一言「俺にはわからない」。
そして茨城なまりの抜けない鈴之助師、あの日も確か「紙入れ」だった。
新吉の語尾が「だっぺ」になってしまい、おかみさんのほうがなぜか「ありんす」になる。
これが志ん朝にバカウケで、「お前はそれでいけ」。
なのに、今聴いていたら鈴之助師、すっかりなまりが抜けてつまらないって。
|