三遊亭鳳月「たがや」
続いて鳳月(ほうづき)さん。大きないい声で語る人。
部屋がクーラー故障になり交換してもらうが、室外機交換の際、蛙が飛び出てきて、蛙嫌いの作業員が仕事ができないというマクラを振る。
楽しく膨らみそうなネタだが、まったく面白くはない。
漫才師出身なのに、即物的な「面白さ」の追求は、最初から放棄してしまっているらしい。
だがそれはそれで、凄いことだと思う。
「お笑い」要素を捨てて、噺家として生まれ変わるのである。
つかみのマクラは不発でも、鳳月さん、漫才で鍛えたいい声でもって、音羽屋から、玉屋鍵屋のマクラを振る。
普通の古典落語のマクラだから、別に面白くはない。それでも、しっかりちゃんと語るので、客がいたたまれなくなることはない。
きっと年を経ると力が抜けてきて、こんなありきたりのマクラが楽しく聴こえてくるようになるに違いない。
うん。あなたの修業は間違ってない。
「客の分際で芸人の上からものを言う」のが好きなわけではないのだが、こう思ってしまったのでお許しいただきたい。
円楽党の芸人上がりの噺家だと、とむさんは芸人時代と同じテンションの面白さを追求して成功しているが、意外とこの手法は難しいようだ。
とむさんの弟弟子にあたる三遊亭西村さんは、まだ前座だから先はわからないものの、本格派指向のようである。
そしてこれからがシーズンの噺、たがやへ。
これは素晴らしいものだった。
情景を描き客に届けるのは噺家の大事な仕事だが、たがやを過去に聴いて、情景が浮かんできたことはなかった気がする。
名だたる先輩たちをさしおいて、キャリアの浅い鳳月さんのたがやから、両国橋の上の情景が私の目に映ったのです。
この噺は、あっという間になぜか町人のたがやが、お侍3人を始末してしまうというのが面白いのだろう。
鳳月さんのものも、あっという間に決着がつくスピード感はちゃんと持っている。それでいながら、同時に情景が浮かんだのだ。
剣の素人がなぜか侍をやっつけてしまうという、あり得ない状況の立ち回りが丁寧である。
最近、続けて鳳楽一門の噺家さんに感心させられる。鳳志師に、鳳笑さん。
鳳楽師は、正直それほど好きじゃない。10年ぐらい前に聴いて、今一つだと思ったことがある。圓生襲名騒動の頃だったと思う。
だが弟子がいいと、師匠を見直したくなる。当時の私が、よさを見極められなかっただけなのではないかという気が強くしてきた。
これだけいい弟子を生み出している鳳楽師が、悪い噺家のはずがない。今度聴きにいくつもりだ。
三遊亭鳳月「王子の狐」
仲入りを挟んでまた鳳月さん。すぐに「狐は七化け狸は八化け」と早々に噺に入る。
王子の狐。ほぼ、いろは亭の地元が舞台であるな。
これもまた、かなりよかった。
狐が化けたおたまちゃんがなかなか色っぽくていい。女も上手い。
最近、落語に人情を求めて通う私である。
笑いが嫌いなわけではない。大好きだが、それだけでは通わない。
前の週に黒門亭で聴いた、三遊亭白鳥師の新作落語にすら人情を感じる私からすると、王子の狐という噺、人情がまっすぐにこちらに刺さる。
といって別に、人情噺ではない。
だが、料理屋の旦那が狐をひどい目に遭わせたことを叱り、翌日お狐さまに詫びにいくサブエピソードはなんのためにあるのか。本筋からいえばカットしたっていいのだ。
この噺の、こういう部分に強い人情を感じるのである。
狐をあべこべに騙す男にも、強い悪意はない。ちょっとしたいたずら心からおこなったことなのだ。
その人の好さも強く感じる一席でした。