志らく落語を久々に聴いて思うこと

松本人志はだいぶ形勢不利である。
お笑いレジェンドといっても、消えてしまえばそれまでだなあと。
テレビバラエティはちゃんと埋まって、ちゃんと進行している。というか、誰かが具体的に穴を埋めたという印象は持っていない。ただ巨匠だけ消えた。
千鳥やかまいたちは、別に穴を埋めようなんて気負っていない。気負わなくても埋まっている。
それどころか。あくまでも個人的な感想だが、松本人志なんて最初から好きじゃなかった気すらしてくるのだった。
これは決して、「やらかしたから」(クロだと決めつけたから)ではない。お笑いの功績を否定したわけでもない。
どんなタレントも、もともと最初から100%心酔して眺めてはいない。楽しみつつもどこかに影の存在を感じている。
当ブログの過去記事にだって、消える前の松本御大に関し批判を書いている部分もあるのだ。
真に責任があろうがなかろうが、影の評価がときに肥大し、あっという間に地位を逆転する。

ダウンタウンが演芸番組で彼らを詰めた横山やすしに最後復讐したのは、間違っていたとは思わない。
しかし松本が引っ込んだ際に、やすしがいかに真っ当で、ダウンタウンのほうが間違っていたなんてネット記事を読んだ。
同意まではしないが、わりとすんなり読めてしまって驚いた。
強い相手に勝ててしまうと、人間、傲慢になってしまうのだなあ。

実際急に、影の部分も思い出す。
あるときHEY! HEY! HEY!で、松本が公開収録の客に対し悪態をつき、それがずっとオンエアされていたということがあった。
あまりにもノリが悪いので、MCが公開説教をしたのだった。
急に湧き上がってきたこの記憶、架空のものじゃないかと思うぐらい違和感丸出し。
当日観にいった客には、トラウマになってるんじゃないか。
性被害もまた、完全合意の上でない以上、後で不完全の部分がぶり返すこともあるだろう。
合意があったと主張する側は、5分5分ぐらいで合意だと思っているわけだから、最初からかみ合わない。

島田紳助だって、なつかしく思う人はいるわけだ。それは別にいい。
でも私の記憶の中で、演芸やバラエティのなつかしい位置に、あの男が占めている場所などない。
昔を振り返る際には、存在していないのと一緒なのだった。

で、今日は立川志らく師匠である。
結局、志らくの松本擁護に世間がついていけないのは、このあたりにありそうだ。
一般視聴者は、テレビに出ている人に裏がないとまでは思っていない。裏を含めて認識している。
そして、被害側に与する気持ちも持っている。
なのに、裏の存在を一切見ようとしない擁護が出ると、取り残された気持ちになる。そういうことだろう。
しかも実際、被害者をないがしろにする意見であることは間違いなく。
そもそも本来的に、志らく本人、筋金入りの理論武装芸能文化人だと世間に思われていない。
またなんか言ってるねぐらいに思われてるわけで。

ところで、志らく非難は別にいいけども、落語を知らない奴がXで「こいつは落語に『日本人かあ』とヘイトを入れた」なんて書いてる。
やめてくれ。
最初に左メディアのリテラがそう書いたのだが、書いた人は落語をよく知らない。
「日本人かあ」はごく普通のクスグリなので。
まあ、「志らくが喋っているとヘイトに聞こえる」は、確かになかなかよくわかるけども。

やっと本題です。
録画を整理していて、演芸図鑑の志らく司会の最終回、ご本人の高座を聴いた。
演目はたいこ腹。
志らくはしばしば、「落語を聴いてから(自分を)批判しろ」と言っている。
落語を聴いてもらえれば、俺のすごさがわかるはずだと言いたいわけだ。
私は繰り返し書いてるが、そりゃムリです。
「日本人かあ」なんて、ありきたりのクスグリを入れるだけで批判されてるのである。試しに聴いてみる人間が、きちんと評価するモードになっていない。
ご本人はテレビに出ることで、落語を聴いてくれる人も増えるとそう期待している。
それはそうなのだが、テレビでネガティブな意見を持った人がその人の高座を聴いて、期待通り評価してくれることはありません。
同業者に評価されないのも当然のこと。世に、本当に客観的な評価なんてそうそうない。

たいこ腹だが、この人が自画自賛するテンポ、リズムといったものにケチをつける気はない。
それは別にいいじゃないですか。何の偏見もなく聴き入って、落語のファンになる人がいるといいですね。
私はやはり引っ掛かった。テンポではなくて。
ギャグ一杯のたいこ腹、それは別にいいのだ。
だが、ギャグ入れるたびに、「どうだオレ、面白いだろ。こういう画期的なクスグリは、全部オレが最初にやったんだ」という演者自身の副音声が聞こえてくる。
ああ、テレビで自慢げに(自虐をしててもやはり自慢げに)喋っているときとまったく一緒だ。
こりゃ、楽しめないわ。

落語協会がすべてにおいていいとは言わない。それはパワハラ事件の通り。
だが、志らくみたいな自慢げな高座というものは、協会にはないなと。
むしろ逆に、自意識を徹底的に殺すことを、前座時代に覚えるためだろう。
たいこ腹から、喬太郎師を連想した。師の高座は、演者を濃厚に感じるのに、演者の思想や押しつけといったものはほぼ無である。
演劇っぽいとされるゆえんでもある。
喬太郎師がドラマに出たときに演技が上手く、そして志らくが大根な(観てはいないので、世間の評判ですが)理由は、高座からもよくわかるのだった。

作成者: でっち定吉

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