林家彦いち「という」(日本の話芸)

NHK日本の話芸、気づくとまた再放送日程が変わっているようだ。
初回放映が日曜日。再放送が金曜日になったのは、ブロガーからするとチャンスなのだった。
すなわち、本放送後に記事をアップすると、再放送時に最初から検索アクセスがあるわけである。一粒で二度美味しい。
とはいえ、今回はどうかな。
もともと「林家彦いち という」という検索ワードでもって、私の古い記事が引っかかるのである。
4年前の池袋のもようをレビューしたもの。
今回日本の話芸でこれが出ると決まってから、ちょぼちょぼとアクセスはあった。
だがオンエア後のアクセスは26。当ブログとしては、それほどの数字でもない。
理由については、録画を観て思った。ああ、この楽しい新作落語は、日本の話芸向きではなかったなと。
そもそもリアルタイムで観て驚嘆し、即座にスマホを叩いてみる種類のものではなかったのでは。

と思いながらもう1回観返すと、やはり楽しいのであった。
なので月曜の朝っぽらから3度観返してしまった。

ベテランにならないと出られない日本の話芸(東京)も、演者の若返りを進めているような気配はある。
古今亭菊之丞師が2回出ていて、こちらが最年少だろうか。
キャリアが一番短い出演者は、私も現場で聴いた桃月庵白酒師。
なんだ、若返りといってもこの程度だったか。
兼好、三三、馬石、一之輔などにはまだ回ってこない。
菊之丞師の上の年齢で出ている人というと、柳家花緑師。ただこの人はキャリア長いから別格。
こうしてみると、彦いち師、二度目の出演なのはすごい。
白鳥師だって出てないのに。
ちなみに彦いち師の一度目は「神々の唄」。
さらにいうと、この番組で新作出しているのは、超ベテランの文枝師と、喬太郎師ぐらいのもの。
喬太郎師だって過去5回しか出ておらず、新作はそのうち最初の2作(純情日記横浜編、ハンバーグができるまで)であって、最近は古典がメイン。
余談ですが、喬太郎師の「仏壇叩き」、今週金曜にBS松竹東急でまた放送されるので、よかったらご覧ください。
これも日本の話芸にいずれ出ると睨んでいる。

彦いち師の新作「という」。
NHKの人が、ぜひこれをお茶の間に、と意気込んでNHKの収録(非公開収録)に出したのだろう。
その思いはなんとなくわかる。
ただ、伝わったかどうかは?
前述のごとく、繰り返して聴くと実によくできた噺なのであるが。
古典落語はわりとぼんやりしていてても聴ける。
だが新作は、ストーリーとそして世界観についていくため、ある程度しっかり聴く必要がある。
「という」は、なまじどちらのハードルも低いので、ぼんやり聴き始めてしまうかもしれない。
ところが実際はかなり飛躍の高い世界に連れていかれる。リアルタイム放送では、モードを切り替えようとして手遅れになりそう。
これが、現場だといやおうなしにしっかり聴くので大丈夫。
もっとも、つい寝てしまうとまるでわからなくなるのだが。

私が現場で聴いたのは、仲入りのひとつ前。長めの池袋とはいえ、15分強であったろう。
なので、28分の日本の話芸では構成がやや異なっていた。
「〜という話はどう?」のウソ話に、娘と犬が加わっていた。たぶん、サゲ付近も増やしてあるのだろう。
その前に、これトリでやってたのだろうか?
テレビではすでに衛星劇場でやったようだが、私は観ていない。

番組冒頭の挨拶で彦いち師は、これはアイディアを創作に練り上げていく、その出だしの部分を落語にしたものだという。
私からすると、これは「話術とは何か」に迫ったエポックな作品である。
そして話術とは、必ずしも中身(とオチ)を伴ったものでもないものだという、ひとつの真理を衝いている。
この噺に出てくる迫真の話術が、すべて中身ないものだと言ってるわけではない。でも、物語の展開的にはさして中身はないのである。
噺のメタ構造も見事だが、これはそれほど派手ではない。
笑福亭羽光師のように、メタを目的化して作ったものではない。
やはり主テーマは、話術とは何かそして「話芸とは何か」ではなかろうか。

マクラは海外公演の話。
最近は海外で落語してくる人増えましたな。同期の扇辰師や、海外嫌いだった喬太郎師までマクラで披露している。
彦いち師まで行っていたのは知らなかった。しかも英語で。
桂かい枝師と関係しているのだろうか。
ブルネイ王国で英語版初天神を披露していたが、飴(Candy)と団子(Grilled Chicken)について子供がおねだりしているのを親父があまりにも買ってやらないので、客の偉い人からものいいがついて、ストーリーを改変したという。

あまり本編とは関連してないような気がした。
だがよく考えると、「話をアドリブで変更する」つまりその場の状況に応じた話をするという点でつながっている。
劇中で披露されるウソ話には、アドリブのものと、わざわざ稽古してきたものがあるのだ。
どちらも話術のひとつの形。異国の地で団子をすぐ買ってやる初天神をする彦いち師にとってもまた。

田舎に娘を連れて帰省してきた長女が、家にいる次女と話している。
最近の東京の話をしてよと次女。
そんなのより私の知らない父さんの話をしてよと長女。
次女はそれに応じ、父さん実はKGBだったの。

これを筆頭に、次から次へ繰り返されるウソ話。
テキトーなオチもない話が続くのに、そしてそのことがわかってるのに、劇中の話に引き込まれてしまう。
もちろん彦いち師の演じる劇中人物の、高度な話術のゆえである。
そして話にオチをつける強迫観念に駆られている関西人には理解できないかもしれないが、本当にオチはいらない。
あえて言うなら「という話はどう」がオチなのだが。

姉妹はお互い高度な遊びをしているのだ。
そこに連れてきた小さい娘も加わり、母親も加わる。
そして死んでいたと思った親父も加わり、世界はさらに拡大していく。
噺全体も、収拾付かないまま終わってしまう。

一度聴いて、なんだこりゃ。新作なのはいいとして、こんなのしょーもないとそう思った方も、再度当ブログをご参考に聴いてみていただきたい。
結構よみがえって楽しく聴けるのではないかと。

そしてよく聴くと、乱暴な噺の乱暴な各エピソードを成り立たせるため、話術とはなんなのか、楽しいウソとはなんなのかという小技が積み重なっているのだった。
話に具体性を持たせるため、先代小さんが目白に住んでいたエピソードを入れ込んだり。
人の生き死にに関するシャレにならないウソはよくないという、「新聞記事」に出てきそうなくだりまで。
携帯が圏外だとか、近所におじさんみたいなおばさんがいるとかそんな「あるある」も噺の立体化に貢献している。

聴けば聴くほど楽しいので、記事書きながらもう1回聴いてしまった。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

粘着、無礼千万、マウント等の投稿はお断りします。メールアドレスは本物で。