三遊亭兼好「三年目」 師匠の演目から師弟関係を探る

産経らくごの配信を今日も観る、というか聴く。
大手町落語会の三遊亭兼好師について。

兼好師の「三年目」は聴いたことがなかった。
これは明らかに、師匠・好楽から来ている演目であろう。
兼好師は、師匠の噺はあまりやらない印象がある。芸風が違うから、やる演目が違って当然という気もする。

私の偏見かもしれないが、兼好師を褒める人に限って、なぜか師匠のほうを悪く言う傾向があるのではなかろうか。
私は師弟揃って好きです。
まあ、確かに活躍のフィールドは違う。師匠は笑点と地方のホール落語、弟子は落語協会の人気の師匠に交じって都内のホール落語。
親子会も見ない。
実際には、人気者も寄席に出る円楽党であって、活躍場所は共通しているのだけども。でも違うイメージはあるかもしれない。
個性も確かに違う。師匠のほうはダメ人間振りをさりげなくアピール(実際の高座では、そこまででもない)し、テキトーでぬるい。
弟子は、マイルドな語り口でズバッと人を刺す見事な毒舌。テキトーさなど一切なく、精緻な組み立てをする。
でも、たまにやっぱり師弟だなあと思うのである。ちょうどそんな演目がこれ、三年目。

40分ほどの、仲入りの高座。
前の出番は萬橘師だったようだけど、なぜか萬橘師のみ配信にない。
暑くなるとあんなのが出ますのでと兼好師。

携帯扇風機や風鈴など、今と昔の夏の風物を描いて客席を徐々に温めていく。ように見えるが、実際は萬橘師が過熱させた高座をクールダウンしているのだろうな。
コンプライアンスに気を遣っておいたうえで、幽霊はいい女に限るという話。あまり太っていてもいけない。
こういうこと言っちゃいけないが、というフリを大きな笑いに変えるのが手練れ。
現代が窮屈でネタが作れないなんてお笑い芸人は恥ずべきである。
ためになる話も入れる。
小泉八雲の書き残した、死ぬ前に化けて出てやると宣言した罪人の話。
このエピソードは柳家喬太郎師が、「雉子政談」という落語にしていますね。
幽霊になるための強い思い、が最後のフリとなる。
長いマクラを17分ほど振って、ようやく三年目。

好楽師からは、ここ5年で三年目を4回聴いている。季節ものなのに実に多く遭遇している。
師匠のマクラは楽しいし、それに人情が詰まった演目だから、被って残念ということはない。
師匠は三年目を、笑いを控えて描く。だが、いまわの際にありながら、余裕は常に漂っている。朴訥に語っているからだろう。
弟子のほうは、露骨なギャグこそ入れないが、もっとユーモアたっぷりに、アクセントを付けて描く。
でもテーマが、師匠とやっぱり共通しているように見えるのだ。女のいじらしさという、わかりやすいテーマ。

同じテーマの噺を描くにあたり、方法論を変えてくる弟子。
前妻が警戒している「本所のおじさん」をギャグたっぷりに描いて、その結果あっさり再婚に至る。
兼好師の日ごろの演出の方法論からすると、つるんとしてとっかかりが少ない噺のようだ。
だから攻略手段を探しに脱線する。新妻のいかにも昔の嫁らしい態度を拾い上げ、演者自身の家庭をギャグたっぷりに描く。
ここをどんどん広げていく。地噺の手法である。
一応、夫婦関係という本編のテーマを引いたままなので、「噺はどこまで行きましたかね」みたいなのはないのだけど。

ただ、描き方が違うのに、やはりテーマが同じ、そう見える。
師匠の落語が大好きで、しかし同じようにはやりたくてもやれない。
ムリに同じようにやるとダレてしまう。
なので、なんとかギャグを盛り込んでいる、そんな気がしてならない。
客がギャグに感心するのは自由であるが、語りたいテーマはまったく揺るいでいない。

本編に戻ると、幸せな家庭環境が描かれ、勝手にしんみりしてくる。
そこにようやく先妻の幽霊登場。
先ににっくき本所のおじさんに化けて出た、というとっておきのギャグは入るものの、ここまで来たらテーマの回収はすぐそこだ。

好楽なくして兼好なし。
私はずっとそう思っているのだが、そのような評論はないようである。

作成者: でっち定吉

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