マクラ下手を脱却せよ

月曜日に阿佐ヶ谷で入船亭遊京さんを聴いてきた。
9月下席から志ん橋で真打になる先輩、古今亭志ん松さんについて触れたマクラが最高であった。
遊京さん、常にマクラが楽しい印象。
過去記事を振り返ってみたら、確かに今回のように楽しいマクラも書き残していた。だが、いつもいつも振っているわけでもなかった。
特に寄席の二ツ目出番では決して余計なことはしない。だからといって、本編が楽しいのでがっかりしたなんてことは皆無。
マクラを楽しく語る腕はあるが、それに頼っているわけではないのだった。演者はあくまでも高座とワンセットで考えているから。
ブログには書いてないが、中国渡航談を聴いたことがある。これは完全なる漫談。
もともとこの印象が強いのが、マクラ上手の印象を強めている。

遊京さんは、マクラを三人称で描いている印象がある。
たとえ自分自身のことを語っていても、視点が別の人にあることが多い。
今回だと、失踪したアニさんの部屋に入ってみる場面の視点が、先代志ん橋とそのおかみさんにあるのだ。
以前も、元・三遊亭天歌さん(現・吉原馬雀)についての楽しいマクラを聴いたが、これも視点が自分自身でなく、一蔵アニさんにある。
思えば、「こんな楽しい話がある」と披露するにあたり、最初から客観的視点を持ち合わせているわけだ。
思えば、古典落語自体がこうした性質のもの、そうあるべきものかもしれない。
与太郎は、自らギャグを発することは少ない。ただ、他人から見たときにズレを感じる話はするのだ。
客観的視点があることで、登場人物が記号化し、それによって汎用性・普遍性を得られるわけだ。マクラもしかり。

いっぽうで世間には、マクラ下手な二ツ目が多くいる。
神田連雀亭でこうした人に当たるとガッカリする。マクラ下手だが本編は上手い、ということは、まずない。
下手なマクラでテンション下げられるぐらいなら、なにもしないほうがまし。
マクラがわりと凡庸だが本編は圧倒的、という柳家小はぜさんは例外のクチだ。
真打にだってマクラ下手な人はもちろんいるのだが、真打ぐらいになると、だんだんムダなことはしなくなる印象。
マクラで人を沸かす能力がないことに気づいたら、あとはありものの小噺や、古典落語付随のマクラだけ振っていればいいわけだ。それで意外と格好つくし。
二ツ目の場合は、まだまだ苦闘している人が多い。

つまらないマクラの二ツ目を思い起こすと、共通項がある。

  • 自分で話が面白いと信じられていない
  • 自己解説が多く、腰を折ってばかり
  • 語り手以外の視野が存在しない
  • 語り手の思考回路に客が共感できていない
  • 自己ツッコミでウケを回収しようとする
  • 極端な自虐
  • 極端な毒舌(毒舌の視点に共感できない)
  • 感性の違う個々の客に刺さらないとき、修正できない

すべてが遊京さんの逆である。
ちなみに、語るテンションについては、必ずしも逆ではない。
テンション高い語りでスベるという最悪の事例もなくはないが、どちらかというとボソボソ語って、そしてつまらない人のほうが多い気がする。
胆力を鍛えるか、あるいは真逆にテンション高い話術を繰り出すか、どちらかであろうか。
テンション高い話術でダダスベりすると、将来まで危ぶまれそうだが。

とにかくブリンカーを装着した馬のように、視野が狭いネタはよろしくない。
常にそこに、一般的な視野からどう見えているかを乗せていかないと。
さらに悪い例もある。個人的にしか面白くないネタについて、説明があると笑う前提が生まれるなと勘違いし、はい、ここで笑いましょうとやるのは最悪。あんたに指示されたくないよとなる。
自己ツッコミするぐらいなら、ボケっぱなしのほうがいい。
最近気の利いた若手は取り入れている手法。落語の本編で多いが、マクラにだって入れられる。
スウェーデン人の三遊亭好青年さんは、「私の師匠は好楽といって、誰も知らないでしょうけど」。
こんなボケっぱなしマクラを振っていて、いたく面白かった。

本当に個人的にしか面白くないその事実がちゃんと理解できているなら、まだやりようはある。
「オタクである自分はこんなことを面白がります」を客に見せてしまえば、まったく共感できなくてもクスっとしてもらえるかもしれない。
オタクというより、フェティシズム。
鉄道落語の会に女性が押し寄せるのは、人の感性を笑う楽しみがあるからだ。
なら演者も、その感性を出してやればいい。

上方のベテラン、桂春若師がよく「私は好きだが、そんなに面白いわけでもない小噺」を、そう断って連発で振っている。
断る必要があるのかなと思っていたのだが、これは客をいたたまれなさから救うためなのだろう。
つまり小噺が面白くなかったとしても、「ああ、このオッサンはこれをおもろいと思ってはんねんな」と納得できるわけである。
これも、自分の感性自体を笑いの俎上に載せているわけだ。
ちなみにつまらないジョークも、続けるとだんだん面白くなってくるものである。それまでにしくじらないことが大事。

現在はほぼ100%アジャストするが、昔の柳家喬太郎師も、バカウケのいっぽうマクラが微妙に蹴られることも多かったと記憶する。
だが師はもちろん昔からすごかった。
共感を探りに行きつつ、その日の客に合わなかったとき、ちゃんと脱出路を持っている。
師の漫談の代表作であるコロッケそばにおいても、客にピンと来なかったときに、「今日のお客さんはブルジョワジーですな」なんて言って、話題を消してしまう。
客に責任を取らせたりしないところが高度なのである。

現状つまらない二ツ目さんも頑張りましょう。
どこかに、自分を笑う視点が存在するはずですって。

作成者: でっち定吉

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