笑福亭鶴瓶「青木先生」

人さまの落語に関するブログを読んでいて、少々驚いた。
このブロガーに対し、とりたててどうこう言いたいわけではない。ただ、これをヒントに、「噺を嫌う」「噺家を嫌う」ということについて考えてみようと思った次第。
笑福亭鶴瓶師の「青木先生」が不愉快で許せない、と書いているブログを読んだのである。
老齢の先生をからかって楽しむいじめが許せないのだと。鶴瓶師の噺は二度と聴かないし、テレビに出ていればすぐ消すのだそうだ。

「生徒にからかわれて怒る先生の入歯が「ピー」と鳴るサゲで、不快感を持つ人がいたとして、そのこと自体は仕方ない。
人が不快に思うこと自体を、他人がとやかく言えるものではない。
だが実際には、「青木先生」という噺。この先、さらに人情噺的なサゲがある。
3年生最後の授業、今日くらいはと、日頃散々先生を困らせていた生徒たち、一切のおふざけをせずマジメに授業に出ていた。
すると先生がみんなのほうを向いて「みんな。いつものようにやってくれ」と言ったという。
ヤンキー学生まで、先生にそう言われて涙をこぼしていたと。

落語というもの、聴き手の個人的な心情により、なんらかの不快感を惹起させる可能性が常にある。
寄席でも、目の見えないお客が来れば、「心眼」等の盲人の噺は出さない。これは、配慮すべきものだという認識が、もともと落語を提供する側にもちゃんとあるからだ。
与太郎を愚かに描写することにより、知的障害児を持つ親が不快な気持ちになることだってきっとあるだろう。

私にも極めて個人的な経験がある。今をときめく春風亭一之輔師の二ツ目時代、「唐茄子屋政談」の吉原田圃の場面で、なんとも言えない悲しみ、やるせなさを惹起されてしまったことがある。一之輔師としては、しみじみさせるのがこのシーンの描写の目的なわけだが、当時のパーソナルな心身の状況によって、語り手が企図した以上の悲しみを与えられてしまった。
この日の落語は、そんなわけでまったく楽しめなかったが、だからといって私は一之輔師になんの恨みも持ってはいない。
そのときの私が、一之輔師に怒っていたとすると、これは傍から見て非常に滑稽だ。
鶴瓶師の噺に怒って、わざわざそれを世間に訴えようとするブロガーには、そういう滑稽さを感じた。

ダウンタウンが若かりし日に、横山やすしにTVの演芸番組で激怒されたというエピソードがある。これは、一般的には怒る理由のほうがわからないとされている。
やすしは、ダウンタウンのネタから、極めて個人的な肉親に対する思いを汚されたと感じて怒ったらしいのだ。
個人的な怒りは世間には通らないし、叱られたほうも反発しか感じない。
晩年、ダウンタウンたちが「やすしくん」というコントを「ごっつええ感じ」で演ずるのを、哀しく視ていた仕事のないやすし。
自業自得ではあるが、プロであっても客観的な判断を失うことがある。

私自身は、「青木先生」という噺は嫌いではないが、大好きだということはない。
大好きだとまでいえないのは、鶴瓶師に対する好き嫌いや評価とは全く関係なく、「学校」というものに対する極めてパーソナルな思いによるものだ。
「好き嫌い」なんていうのはしょせんこの程度で決まるものだ。だがそれでも、「青木先生」がよくできた噺であることはちゃんと知っている。

私がかつて大阪にいた頃、「パペポTV」で楽しませてもらっていた鶴瓶師が、ざこば師と一緒に「らくごのご」という番組を始めたときは驚いた。
ずいぶん楽しませてもらったものだ。鶴瓶師が一流の噺家であることはよく知っている。
鶴瓶師、「笑福亭松鶴」の名跡を継ぐのでしょうか。きっと継ぐのではないかな。期待しています。

作成者: でっち定吉

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