(小ネタいろいろ)小三治鼻濁音/高橋維新/志らくのマクラ

柳家小三治著「落語論」で取り上げられていた「鼻濁音」について先日書いたが、検索してみるといろいろ面白いネタも見つかる。
立川談四楼師の過去のツイートによると、かつて小三治師、楽屋で「鼻濁音の小三治」と言われていたそうである。
若手にも、しつこくお前の発音は違うと言っていたとのこと。
談四楼師、「最近の歌手はインパクト狙いで鼻濁音を使うな」と言われるそうですよ、と逆襲を試みたところ、血相を変えた小三治師に「フン」と言われたそうだ。
やはり想像した通り、志ん朝などと違い、相手を納得させられる説明術の不得手な人であるようだ。
理屈で納得させられずに上から押し付けられたら、若手も気持ちよくはあるまい。「鼻濁音」こそいい面の皮である。
鼻濁音を滅ぼしたのは小三治師だったのではないか。

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先日、「高橋維新」という弁護士コラムニストが、落語の知識なくして狭い主観で好き放題書いている2件の記事を1週間に渡り取り上げたところである。

一人で全部を演じる「落語」は本当に面白いのか?

三遊亭円楽が「ENGEIグランドスラム」の大トリという謎

そのときは実名は直接出さなかった。同様に、この人が罵った噺家の名前も出さなかったが、当代三遊亭円楽師である。
高橋維新は、「猫の皿」において、誰が喋っているかわからない場面があるという論評をしていたのである。こちらは実際の音源を聴いていなかったのだが、どう考えても登場人物2名の「猫の皿」で描き分けができていないはずはあるまいと書いた。
古い録画をチェックしていたら、楽太郎時代の「猫の皿」があったので聴いてみた。
やはり、「登場人物の描き分け」という点については、わからないほうがおかしい。登場人物の二人(だけ)につき、明確に口調が違う。
この「猫の皿」が特にいいとは私も思っていない。だからといって、ケチをつけたければそれ相応の見識が必要である。
よりによって、「演じ分け」というもっともケチのつけようのない部分に入り込むとはなあ。

そこからどういう思考回路を経るのかわからないが、「落語はなぜ二人以上で演じないのか」という疑問に行きついて世間から嗤われる高橋維新。
もっとも、嗤う世間の側に、この疑問を真剣に考えてみたものはなかった。考える必要もない愚問だということだろう。
とにかく、私だけ愚問を一週間に渡り考えさせてもらった。

ついこの間、「笑点特大号」で三遊亭好楽・王楽親子と、小学生の孫まで登場して「親子酒」を三人で演じていた。
これ、維新は視たかな。このスタイルこそ落語だ、と言わねばならないのでは。

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この「高橋維新」について、ツイッターで円楽師もろともぶった斬ったのが立川志らく師。
維新に向けて、「あなたは面白い落語を聴いたことがないのだろう」だと。
同業者を、素人と一緒に背後からぶった斬るという手段は、批判にしてもどうなんだろう。この人らしいやり方なんだろうけど。
その前、ちょっとだけ話題になった名古屋のインチキプロ落語家「司馬龍鳳」を最大に擁護していたのが志らく師であった。志があればみんなプロだとか言って。
プロと名乗るにはうまい下手は関係ないが、プロと名乗っていても下手な奴はいて、そいつは叩いていいという理屈。

へそ曲がりも個性の現れ方であって、それが個人的に気に食わないからと言って個性までを批判する気まではない。
しかし、へそ曲がりを徹底するなら、志らくひとりだけ高橋維新を擁護すべきだった。
「円楽みたいなヘタクソを聴いてわからなくても仕方ない。あなたは正しい」という斬り方なら、インチキ落語家の件とまだ整合性が取れる。
談志だったらこう言うのではないか。むしろ、ぶった斬った相手まで苦笑させてしまうという技術。

この志らく師の落語、珍しく続けて3つ放映された。別に、めったにテレビで放映されないこと自体をどうこういうわけではない。
ともかく、そのすべてにおけるマクラが同じである。「笑点の司会を依頼されたら受けていた。ただし条件があって、座布団運びは談春」。
同じ時期に放映される落語のすべてに同じマクラを使うセンス、果たしてどうなんだろう。

作成者: でっち定吉

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