黒門亭18(上・柳亭小燕枝「居残り佐平次」)

お盆の黒門亭へ。
混雑する顔付けではないと見切っていた。開場時刻を過ぎてから、並ばず悠々と入場するが、まだまだ余裕。
それでも、開演時には30人程度入ってまあまあ盛況。
半券が10枚貯まったので、タダで入れていただく。

昨日、演題アップについて意見を述べた。アップして噺家に迷惑とは一切思わないが、今回はアップしません。
外れがあったからだ。

土曜日1部の主任は、柳亭小燕枝師。
ここ黒門亭でよく聴かせていただく師匠で、今年3度目だ。
聴いて損は絶対にしないし、嫌な部分が皆無。
ぬるま湯にいつまでもひたらせてくれるような、どこまでもいい気分にさせてくださる得難い噺家。
というか、74歳にしてさらに腕上げてませんか? 恬淡とした水のような、至上の味わい。
落語をなぜ聴くか、という疑問に対する回答としてドンピシャリの師匠である。

まずこのトリの一席から取り上げる。
この日は前座を含めて、ハズレ(主観です)が2席あった。
5席中2席がハズレだとキツい。ちょっとブルーな気持ちを引きずったまま、お目当ての小燕枝師を聴く羽目になる。
「居残り佐平次」は、4月に池袋で柳家喬太郎師から聴いた。今年一番かもしれない見事な一席だった。
だが、まったく違う持ち味の小燕枝師の居残り佐平次、気分的に被るところはまったくない。

頭を上げて開口一番。お客さまの前ですが、と。(猛暑の)今日は出歩いちゃいけません。場内爆笑。
なにも大したこと言っているわけじゃなくて、間の取り方ひとつである。こういう腕は、年を重ねてもなお進化するんじゃないかと思うのだ。
ああ、ありがたい。挨拶ひとつでブルーな気持ちの7割ぐらい吹き飛ばしてくれる。

マクラは手短に、飼い猫の話。
2匹の猫は、年も違い、冷房に対する好みが全然違うらしい。13歳の老猫は、熱い日向で寝てるんだそうな。

「上は来ず、中は昼来て昼帰り、下は夜来て朝帰り、そのまた下は居続けをし、そのまた下は居残りをする」と振ってから居残り佐平次へ。
ちなみにこのフレーズ、新たに作ったのであろうサゲの仕込みになっていた。
「おこわにかける」という昔のサゲがわからないため、期せずしてサゲの競作が起きている噺でもある。

とにかく飄々として、力の入らない小燕枝師の佐平次。
佐平次ってこういう人だし、こういう噺なんだ、とそう思わせられる。そんなことないと思うのだけど。
ちなみに、「佐平次」という固有名詞は終盤に一切出てこなかったし、居残りを仕事にしているという告白もなかった。
別に啖呵は噺の肝じゃなくて、削って構わないのだな。やや驚く。
いのどんが居残りの状況に慣れている描写はあった。だが全体的には、なんだかわからない謎の男が、品川宿をかき回して去っていく、不思議な噺に昇華しているではないですか。
一見特殊な演出には見えないのだが、その世界に浸りきると、こんな落語、他にないことに気付く。

で、啖呵もないし、いのどんを旦那が追い出す終盤のくだりが、実に短い。
いのどんこと佐平次が、旦那から徹底的にむしり取ろうとしてもいいのだけど、そういう企みはない。
わずかに現金20円と、着物に下駄だけである。
別に、時間が押してたのでカットしたわけじゃないと思うのだ。そんな器用な編集はできないだろう。
こんなにとんとーんと運ぶものなのだ。この点からも、小燕枝師の軽さがにじみ出てくる。

この噺に限らず、小燕枝師の落語はキャラを強調しない。すべては、相手の反応次第なのだ。
居残り佐平次の場合、いのどんのとぼけた対応そのものではなくて、若い衆たちが呆れてお手上げなことにより、初めてキャラが設定付けられる。
幇間みたいないのどんが活躍するシーンもしかり。いのどんが上手いことを言って客の勝っつぁんを持ち上げてみせることではなくて、勝っつぁんが黙って懐から祝儀を出すことで、いのどんの調子のよさが描かれる。
空気を作り上げるにあたり、決して焦らない小燕枝師。

ギャグは控えめだが、臨機応変に多少入る。
いのどんの仲間がまたやってくると言い張るいのどんだが、もちろん来ない。
若い衆が問うと、「暑すぎたんだろう」。
客に芸者を呼びますかというおかみ、芸者は「小きん、小里ん、小もん」などがいるそうだ。
だがそんな噺家みたいな名前の芸者いらないから、居残りを呼べという客。
あと、黒門町の「べけんや」がなぜか入っていた。

大満足の一席。

この日は、あとは二ツ目枠で出ている柳家やなぎさんがよかった。そちらに続きます。

作成者: でっち定吉

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