この日は前座もいただけなかった。
この前座の名は出さないが、超人気面白系古典落語の師匠の弟子。
師匠の面白さにあこがれるのはいい。だが師匠だっていきなり面白くなれたわけじゃない。
落語の基礎が欠けている状態で、一生懸命即物的な笑いを追求する、一番イヤなタイプの高座。
普通に下手な落語に対してなら不快感はないし、ダメージもない。勘違い前座が一番困る。
急に大声張り上げたりして。当人にとってはメリハリのつもりなのだろう。
これは相当時間が掛かるだろうな。全部リセットしてやり直さないと。
そのあとが二ツ目枠。巨体の柳家やなぎさん。
この日、トリの小燕枝師以外で、非常によかったのがこの人。
黒門亭で見事な「そば清」を聴いていたく感銘を受けたのは、もう2年前のこと。
私の嫌いなタイプの落語がある。
客の解釈にゆだねず、ストーリーを進めるのにいちいち説明を入れる野暮な落語。
これに、説明過剰落語という名称を与えている。
私は個人的に、説明がなければないほど好き。聴いてて楽だもの。
だがたまに、「説明」ではなく、ギャグをたっぷり入れることにより、噺を膨らませてくれる人がいる。
先の記事で激賞した、立川吉笑さんとか。
この日のやなぎさんにも、同じ要素を感じた。
天狗裁きという噺、演者として、かなり説明の誘惑に駆られるのではなかろうか?
だって、なんでそんなに夢の話聴きたがるのか、普通の感覚ではわからないものな。
過剰な説明を入れると噺は死ぬことがあるが、ギャグを入れる限りは輝きを失わない。ギャグが面白くないといけないけど。
天狗裁きでいちばん嫌いなセリフが、お奉行の「幕府転覆を企む奴である」というセリフ。
お奉行は謎の好奇心から夢を聴きたいだけなので、とってつけた理由は不要。入れるんなら、そこに笑いがないといけない。
やなぎさんもこのセリフ入れてたが、ちゃんと笑いになっているからいい。
他にも大家のセリフ、「俺は友達がいない。だから、夢の話を他人にしようがない。たぶん、数日経ってから、人に訊いた夢の話を、お前にすると思う」なんて。
楽しいギャグにより、どんどん話がふくらんでくる。
天狗裁きは非常に落語らしい、楽しい噺ではあるが、落語ファンは今さら、繰り返しの噺を始めて聴くようには聴けない。
どうしても、お奉行あたりから、展開を先取りし、それに笑ってしまう。
だがやなぎさん、繰り返しにちょっとスパイスを混ぜる。
被害者である八っつぁんのほうが、すでに展開を先取りして、またかという反応を見せるのだ。
お奉行や天狗に声を掛けられ、目をつぶり口パクで回答する哀しい八っつぁん。
古典落語の見事な肉付けのしかた。
マクラは、故郷の牧場が出てくる夢の話。
なぜか、師匠・さん喬と白酒師が、故郷の牧場で牛の乳を搾っている。
そこに、なぜか弟子入り志願者が来るのだと。
ちなみにさん喬師は、13番弟子のやなぎさんを最後に、弟子はもう採っていない。
夢の話に師匠を出しているので、「夢の酒」だろうと思ったが違った。
最近、天狗裁きより夢の酒のほうを、ずっとよく聴く。
脱線するが、たまたまこの週、VTRコレクションからさん喬師の夢の酒を聴いていた。
さん喬・喬太郎の師弟というのは似ていないようで、思わぬところで呼吸が相当に似ているなと再発見。
師匠の夢の酒を楽しく聴いていたら、なぜか弟子・喬太郎師が演ずる夢の酒が、脳裏に再現できてしまった。
さん喬師の「棒鱈」も、喬太郎師で再現できるのだ。実際には喬太郎師、どちらの噺もやらないみたいなのだけど。
やなぎさん、ユニークな新作もやる人だが、古典落語により高い将来性を感じる。
体形の似ている春風亭一蔵さんに、声とセリフ回しがよく似ていることにも気づいた。
さて楽しい寄席に行くとブログのネタに困らなくていいのだが、今回はわずか2日で終わってしまった。
この日聴いた、新作(古典のパロディ)の一席がいかによくないものだったか、もう1日掛けて書こうかとも思った。
小燕枝師を楽しみたい私にとって、迷惑このうえなかった。
だが人の悪口は、名前を出さなくても気持ちが重いもの。これをよしとする客もいただけに。
少しでも褒める部分があれば、建設的批判になるのだが・・・
この高座の批判については出し方を考える。またの機会に改めて。