最初に、古典落語における「説明過剰」が気になり出したのは、柳家小三治師の「青菜」だった。お屋敷の隠し言葉の説明である。
「鞍馬から牛若丸が出でましてその名を九郎判官」という奥方の返答、アドリブに決まっているのだが、アドリブなのをしつこく確認する植木屋に違和感を覚えた。
人間国宝小三治師は、私にとってはその説明過剰振りで、客の観賞の自由を奪いかねない人。
「棒鱈」にもまた、くどいシーンがあった。
故人の落語にも、説明過剰の不満がある。桂枝雀。
「つる」において、主人公(喜六らしい)は、甚兵衛さんから聴いた「鶴の由来」のウソ話を、ウソだとわかった上で友達に教えにいく。
師匠・米朝はこの演出に異を唱えたものの、東京にまでこの型ははびこっている。
私はちっとも好きではない。登場人物の行動が説明できないのでこうしているのかと思うが、そもそも説明が必要な理由が理解できない。
米朝は、マクラでの説明はともかく、噺そのものの過剰演出はしていなかったと思う。
米朝は、たちぎれ線香については若旦那の非道振りの解釈は放棄しているし、けんげしゃ茶屋については「ホンマはええ旦さんなんや」という肚で(客へは説明せず)演じていた。
枝雀と違い、客に解釈を押し付けたりはしなかったのだ。
好きな師匠の噺にも、たまに説明過剰の部分が見つかる。
柳家さん喬師は、「そば清」の考えオチをなんとか処理するため、アルマイトの弁当箱と梅干のエピソードまで持ち出して客にヒントを与える。
このサービスで、考えオチ自体を説明しないことには成功しているのだけど、ヒントのくどさはどうしても残ってしまう。
ヒントが面白いのはいいが、噺のサラっとした味わいは犠牲になる。
弟子の喬太郎師は、そば清をこうはやらない。さらっと「なにを勘違いしたのか清さん」だけ振って、先に進めてしまう。
客は、わからなくてもかすかな違和感を持ってサゲに向かい、サゲからなにかを得ることになる。
喬太郎師は明らかに、くどい演出に問題意識を抱いている。
柳亭小燕枝師の「小言幸兵衛」。大家の幸兵衛さんの、部屋を借りに来る人を追い返すあしらいの理由は謎であるが、小燕枝師はこれを幸兵衛のセリフで、「楽しみのため」と説明していた。
小燕枝師の落語に、そうした説明過剰振りを感じることはむしろ少ない。なぜこの噺だけ?
春風亭一之輔師の「青菜」は爆笑ですばらしいのだが、それでも気になった部分が。
小三治師がこだわったのと同じ部分のくどさもちょっと感じる。一之輔師の感性には、小三治師のこだわりは引っ掛かったようだ。
ただし一之輔師の場合は、「夫婦で事前に稽古しているのではないか」「カンニングしているのではないか」というギャグと一緒にこだわりを表に出しているので、気にしなければまったく気にならない。
一之輔師は、自分のこだわりを単純に描くのではなくて、客と一緒に楽しもうという真のサービス精神を持っている。
ただ、そこよりも気になる箇所がある。植木屋が、オウム返しを始める理由付けが長いのだ。
一之輔師らしく、ぶっ飛んだ植木屋がぶっ飛び気味にオウム返しをするのは見事なのだが、理由付けはやはり長い。屋敷でのやりとりを反芻しているうちに、どうしてもやりたくなるのだ。
たっぷりギャグを入れることによって理由付けをスムーズにする工夫は見られており、実際楽しい。
でも長いことは長い。オウム返しをする理由付けが欲しいのは、落語が説明過剰になる黄金パターンかも知れない。
時そばなど、この部分例外なく長い。もっとさらっとできるんじゃないかという気がする。
前座噺の「道灌」においては、八っつぁんのオウム返しの理由付けは確立している。真に納得できる理由かどうかは別だけど、そこに疑問を持つ演出はない。
ただ得てして、いろいろな噺でオウム返しについて理屈を求めたがる。客が求めているのか、演者が勝手にこだわっているのかよくわからないけど。
ブログでも取り上げた「看板のピン」などもオウム返しにおける理由付けの長い演出が多い。
こういう噺家さんの工夫、私はまったく尊重していないわけではない。確かにオウム返し、冷静に考えると意味が分からない。
そこを放置していると、落語そのものが世間から受け入れられなくなるのではないかという、噺家さんの不安すら感じる。
古典落語をわかりやすく演じるのはひとつのテーマ。だが、そういう世界に慣れている客に対しては、くどさとして映ることがある。
そもそも、オウム返しの理由をちゃんと説明するのは、たぶん本来的に不可能だ。
看板のピンを例に出すと、オウム返しをする理由としては、このようなものが一応考えられる。
- ズルして儲けたい
- カッコいい隠居の真似をしたい
- スリル溢れる体験を再現したい
ここからどれかひとつ(もっぱら1)を任意に選択することにより、他の理由は消えてしまう。それでいいのだろうか。
説明を補うことによって、解釈は固定されてしまうのだ。これが押し付けとなる。
私は、古典落語の人物の行動については、説明が少ないほうをよしとするようになっている。
「なぜそうなのか」を聴き手の解釈にゆだねる余地が大きいほど、落語は楽しくなるのではないかとすら思う。
落語たるもの、最終的には演者と客との共同幻想を描けないと成功しない。
かつて掛からなくなったが、現代になって確実に復権している噺の代表が「野ざらし」。年増のコツを釣ろうとする八っつぁんの妄想に、客が付いてきてくれるようになってきたからこその復権だろう。
演者も客を馬鹿にしているわけではないと思うが、もう少し我慢して、客と一緒に噺を楽しんでもいいんじゃないか。
演者において、登場人物の行動を肚に収めたいから説明しているのだなと感じることも多い。客の前に、自分を納得させるのも大事ではある。
例として柳亭市弥さんの「粗忽の釘」は、粗忽の行動ひとつひとつに流れをこしらえ、すべて理由付けしていた。
これで演者の肚には入るだろう。ただ、ミラクル粗忽のシュールな快感は犠牲になる。
説明を補う際、同時にシュールさも加えていくのが一之輔師だ。一之輔師は、合理的な説明とシュールさと、相反する要素を同時に満たすところがすごい。
この真似はしたくてもなかなかできない。
ならば、くどい演出を安易に掛ける前に、立ち止まって考えるべきでは。
これは新作だが、桂三度さんの「先生ちゃうねん」は、「生徒が先生をからかいに次々職員室に行く」という説明を省略して噺を構築できるのなら、大傑作になるかもしれないと思っている。
古典落語の「提灯屋」は、あまり掛からないおかげで、次々押し掛ける理由付けがくどくない。解釈の余地があることが傑作を生むかもしれない。
落語の展開というものは、ある程度ご都合主義にならざるを得ない。新作を綺麗に作りたくなる気持ちはわかるが、最初からズレているものを併せていったところに快感が生まれると思うのだ。
だから、不合理と思われない程度にズレは残っていてもいい。
さて、噺の説明過剰につきつらつら考えていたそのとき、これ以上ないくらい過剰な演出を採用しておきながら、圧倒的な一席に出逢ったのである。
神田連雀亭で聴いた、立川吉笑さんの「十徳」。
本来短い噺なのに、20分の時間をフルに使う吉笑さん。
「十徳」という噺に出てくる同名の着物、隠居が着ている変わった形状をした服の名前のいわれは、隠居にもわからない。
こういうとき、隠居が八っつぁんに後ろを見せずに話をでっちあげれば「千早ふる」だし、暇つぶしで、でたらめを承知で答えれば「つる」「浮世根問」となるだろう。
隠居は、十徳の名のいわれは知らない。だが知らなくて恥ずかしいとは思っていないので、「羽織のごとく、着物のごとくで足して十徳だ」と適当に説明する。
つると違うのは、八っつぁんは友達に由来を教える必然性を持って隠居を訪ねているのであり、嘘でもなんでも、理由さえあればそれでいいと思っていること。
それに、「両国橋」と「一石橋」の名前のいわれのほうは本物を教わるので、適当に考えた隠居を軽蔑することもまったくない。
だがこうした噺の構造上、十徳という噺には、どうしても座りの悪さが残る。
なんででたらめ知識と、本物の知識を同じテンションで教わってなんとも思わないんだと。まあだいたい、こういう疑問について、さらっと演じられる人だけが掛けるのだ。
楽しい噺なのに、あまり掛からない理由はそんなところだろう。
聴き手の側も、古典落語ってそんなものだよと思って聴ける人はいいのだ。聴けるのはひとつの能力。
だが、疑問を持つのもまた大事。
インテリの吉笑さんは、この噺の、座りの悪さを正面突破することにしたらしい。
隠居は、ただの布っ切れに名前のいわれなどあるわけないと最初から結論付けている。だが仲のいい八っつぁんの信頼回復に協力するため、「一徳から十徳まで」計十個、徳のいわれを一生懸命考えてやろうとするのだ。
そのテンションの高さに、八っつぁんが少々引くぐらい。
隠居の行動はいささか突飛にも思えるが、その実「道灌」「子ほめ」などで描かれる、隠居と八っつぁんの関係性から逸脱していない。
古典落語の世界観を裏切らないのだ。
ただ隠居、一から十まで徳を考えるのはやってみると難しい。このネタ作りの最中に、「ごとく・ごとく」をいきなり思い付いて、八っつぁんにレクチャーすることにする。
みんなのいる床屋に戻った八っつぁんは例によってオウム返しの失敗をするのだが、隠居がわざわざ考えてやった一徳から十徳までの徳のいわれが混ざってしまう。だからムダなく、見事な作りとなっている。
また、一石橋の名前の由来を、最近覚えた隠居より詳しく知っている仲間がいたりして。
吉笑さん、徹底して説明過剰の領域に突き進み、古典落語に堂々と生命を吹き込んだのだ。
古典落語において、噺家さんが噺を作る重要性においては、繰り返しこのブログにも書いている。新作を作っている人は、さすが古典落語を作ることに抵抗がない。
なるほど、説明過剰がすべて悪いわけじゃないのだ。
したいからといって説明をしておき、そこに意味がないから、芯がないからいけないんだなと思った次第。