私は常日頃から、「説明過剰落語」の害を唱えている。
演者が落語の背景を入念に語りすぎると、噺が死ぬ。
確かに「藪入り」など、説明抜きでは語れない落語もある。だが最低限必要な説明にとどまらず、中途半端な噺家は得てして登場人物の心理まで語りたがる。
私が説明過剰と判断する噺家の中に、みんな大好き人間国宝・柳家小三治師や、いまだに上方落語に影響を与え続ける桂枝雀も入ってしまうため、賛同は得にくいかもしれないが。
説明過剰になってしまうのは、演者が噺に納得できていないからだと思う。演者が噺を信用していないということでもあるだろう。
客の前に、演者が噺に納得することも大事。語る側が納得できないと、噺がまるごとウソになってしまう。
だから語り手の納得いかない部分に肉付けをしたくなる心情は理解する。
問題なのはやり方。
演者だけが納得して、客を置き去りにしないで欲しいのだ。
そして演者に勇気がないのだ。勇気だけでなく、噺の鑑賞力自体も足りない。
客を引っ張っていく自信もなく、自分の納得のためだけに説明を入れ、そして噺を殺してしまう。
さて「説明」以外に、もうふたつほど、過剰になりがちな要素を発見した。
古典落語に限ると思う。新作の場合も、いろいろと過剰になることはあるだろうが、たぶん客は気づかない。
ひとつは、クスグリの入れ過ぎ。
古典落語は先人たちから引き継いだもの。また、覚えた人もそのまま掛けるわけではないので、独自のクスグリを入れることがある。
それがウケれば、また後世に残っていく。
だから、先人たちの使ったクスグリを集めると、大変な量になる。
中には、消滅するものもある。
「お前は慢性のバカだね」「次は須田町」なんていうのは、意味が分からないから入れない。
ちなみに、かぼちゃ屋や道具屋に入る、与太郎におじさんがぶつけるフレーズである。万世橋の次が須田町だという、東京市電の停留所の話。
消えてしまうものもあるが、それでも結構な量が残る。
年末年始に取り上げた柳亭市馬師の「御慶」。
御慶というめでたい噺、淡々と進むがその割に、実に多くのクスグリを入れる誘惑が潜んでいる。
だからこそ、市馬師の、クスグリ少なめの噺のよさに気づく。
それから先日、実際に寄席で聴いた、瀧川鯉橋師の「無精床」。
無精床という噺のことを私があまり好きでない点も、鯉橋師の演出のよさを気づかせてくれた。
ボウフラとか、耳が好物の犬とか、グロいクスグリが入っていないことのよさを知る。
即物的なウケを狙うと、古典落語はダメになる。自分で考えたものでもないくせに。
クスグリを抜くのも勇気のたまもの。クスグリの取捨選択ができないのは、勇気と自信がないから。
たぶん、気持ちが弱くて切れないのだ。
噺を作らなければならないのは新作落語だけではない。古典落語だって、努力して噺を作らないとならない。
噺を編集できない人が、古典落語を掛ける資格はない。
さらにもうひとつ過剰になるのが「展開」。
落語によっては、本編と関係ないサイドストーリーが充実しているものがある。
「王子の狐」という噺、主人公が消えてしまってからの料理屋において、尻尾を出した狐を捕まえようとするまでは間違いなく必要。
その先、料理屋の主人がお店を休んでお稲荷様に詫びにいく部分は、完全な脇道。
だが、この脇の部分が、噺を立体的に膨らましてくれる。滑稽噺に流れる人情に貢献するのである。
だから大変好きなくだりなのだけども、先日聴いた二ツ目さんのものはまったくいただけなかった。
脇道がただ長いだけで、まるで意味が感じられない。
長い部分を、義務感に駆られてやるのか。自分で受け入れられない展開になんとか笑いも入れようとして結局、「クスグリ過剰」にもなる。
二ツ目の場合、長い時間の高座に慣れていないのかもしれないけど。
というわけで、2020年は小股の切れ上がった落語をもっと評価していきたいと思うのです。