松尾貴史の落語をTVで聴く(上)

TVの落語は、残しておくかどうかの判断の前に、とりあえず録画はしておく。
いっぽうで、そもそも録画が不能なTV落語も相当にある。
たまの無料放送時を除いてCS放送は録画できない。録画のために、専用機器を導入する気まではない。
それでも録画できないCS放送でも、ひかりTVのひかりチャンネルの落語など、同じ番組が繰り返し流れている。何度も視れば頭に入る。
この番組、偶然視ることが多いのだが、最近になってようやく、放送時にTVをつける習慣づけができてきた。
録画できなくても、その週の放映をまとめて予約しておけばいい。TVをつけたときに最初に落語が目に入るわけだ。

今週はまず、立川談四楼師の「ぼんぼん唄」の放送を視たところ。
談四楼師、たびたびブログで取り上げているとおり、理屈のないただの左翼としての現在の言論は決して好きではない。
だが、談四楼師のぼんぼん唄、私のかつての思い出の演目でもあるのだ。上野広小路亭で聴いたのは、もうずいぶん以前のことだが。
久々に聴いた珍しい演目は、なかなかよかった。咳が多いのは気になったけども。
先日の「日本の話芸」で流れた柳田格之進より、ぼんぼん唄のほうがずっといいと思った。
私の記憶よりも、笑いが多い。だが人情噺というものは、笑いを多くすることによって感動がむしろ高くなることもあるので、当時と変わってきているのかどうかまではなんともいえない。
しかしどうせなら、自民党政権批判マクラを聴いてみたかった気もしたりなんかして。
TVが入っているからって、遠慮したのかどうかはわからない。いつも高座で政権批判ばかりしているわけでもないのだろうけど、しているとの情報は目にする。
CSとはいえ、TVでやってみせてこそ、本物の批判じゃないのかと思ったり。
もし批判のために放送できないことがあるとすれば、それこそそれを自慢すればいいので。
それはともかく、この放送、同じものをまた視るつもりだ。

翌日、神田松之丞さんも聴いた。
先輩に対し口の極めて悪い芸人である松之丞のブームを少々冷ややかに見ている私だが、聴けばさすがに感心せずにはおれない。
国定忠治の心境を描くには、ヤクザな了見も必要なのだろう。
講談界で多数派を占める、華やかな女性講談師も決して嫌いではないけれども、こういう切り口はヤクザな松之丞ならではだと思う。

さて本題。
松之丞さんの高座の間に、なぜか噺家ではない松尾貴史の高座が挟まれて放映されている。
本業が落語でない人の高座がTVで流れるとは、さすがCS。こんなのは、他には風間杜夫しか視たことがない。
松尾貴史という人は、好きか嫌いかでいえば、好きなほうに入る芸能人。
桂かい枝師の会に呼ばれた際の収録だそうな。かい枝師の高座のほうはどこに消えたのか?

せっかくだから、松尾貴史の落語を聴いてネタにしてみようと思った次第。演目は「看板のピン」。
私は日頃、天狗連と呼ばれる素人の落語を聴くことも、こうした芸能人落語を聴くこともない。
別に嫌っているわけではない。嫌うには経験が必要だが、経験すらない。
500円払えば二ツ目さんの落語が聴ける日常生活の中で、あえて素人の落語を聴こうと思うことはない。
さて落語のプロではない松尾貴史の落語、どうであったか。
マクラを聴いて思ったのは、あ、この人は人から尊敬されたい人なんだなということ。
別に、人に尊敬されたい了見自体を馬鹿にする気は一切ない。私だってこの思い、むしろ強いほうの人間だ。
ギャンブルについて、非常に知的な内容のマクラ。
宝くじの「当たる売り場」についての勘違いであるとか、控除率についてであるとか。
語る内容は、とても楽しく興味深い。切り口もかなり斬新。
安倍首相を皮肉るモノマネも上手い。
なのにどうしたことか、まったく落語のマクラとしては聴こえてこない。
ここで初めて、プロの噺家が普段喋るマクラというもの、客から尊敬されたいという意識が一切含まれていないのだということに気づいた。
早速、素人落語を聴いたメリットを発見して嬉しくなったりなんかして。

続きます。

作成者: でっち定吉

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