松尾貴史の落語をTVで聴く(下)

松尾貴史のマクラのトーク、披露する場が落語の番組でなく、情報番組やラジオだったとするなら、面白おかしく、すんなり聴ける内容である。
控除率というものの数字のまやかしを、のび太からカツアゲをするジャイアンに置き換えて説明したり。
だが、落語のスタイルには合わない。
プロの噺家は、松尾貴史と異なり、即物的に客に尊敬されたいという意識を一切持っていない。意識というか、修業時代に綺麗に取り除かれてしまうのだと想像する。
それゆえに、私(たち)はプロの噺家をかえって強く尊敬するらしい。
自慢がにじみ出ている立川志らく師の高座が嫌いな理由が、ひとつ腑に落ちた。同業者に嫌われる理由も、プロの噺家の了見を感じないのがなぜかも。
コメンテーターとして視ているおば様たちにとっては、しかしそれがゆえに人気になるわけだ。
同業者に嫌われてはいないにしても、三遊亭円楽師にもちょっとこのいただけない気配がある。元は笑点のインテリキャラから来るもので仕方ないにしても。

人さまから尊敬されたがっている内容を、マクラとして語る松尾貴史は、「看板のピン」本編へ。
まず、上方言葉が落語っぽくない。神戸出身の人だからといって、すらすら喋れるものではないのだと改めて実感。
上方落語は言葉の点においてとてもハードルが高い。
東京で活躍するプロの上方落語家も、出身はおおむね関西である。だが結構、上方言葉を聴いていてオヤと思うことはある。
それでも、言葉を必要以上に重視することのマイナスも知っているつもりなので、気になったとしても、ことさらに取り上げずいつもスルーしているのである。
東京の噺家の鼻濁音もそうだが。

さて松尾貴史、誰かプロ、たとえば枝雀のコピーを高座で掛けるのは納得いかないらしい。
自分で工夫をしている。もっぱら、会話における間の取り方の問題。
表現者としてこれは立派なことだ。
しかし、工夫をしているその中身だが、既存の落語のどこにも当てはまらない。
当てはまらないということは、プロを差し置いて斬新なのか?
そうではない。実のところ、凡庸。
既定の演技が求められているシーンにおいて、まったくフリーの演技で挑むようなものか。

看板のピンが見事な噺家として、ここで頭に浮かんだのが春風亭昇太師。
師の古典落語は圧倒的である。すべてを壊しているような落語だが、落語の世界において浮いてはおらず芯が通っている。新たな型の誕生だ。
さすがに、松尾貴史にこんな真似はできない。いや、仮にやってみたとして、落語との接点がなさ過ぎれば、誰も聴いてはくれないのだ。
ここにおいて、プロのライセンスがものをいうわけである。

なるほど、松尾貴史のおかげで、落語におけるプロとはいったいなんなのか、私なりに理解ができた気がする。
プロは、常に高座に覚悟をもって挑んでいるのだ。当のプロが自覚しているかどうかはともかく。
先人の工夫を使うにしろ、自分自身のアレンジを入れるにしろ、どこかに落語への覚悟がある。
ウケない新作落語をやってしくじるのも覚悟の結果。
つい最近、あまりにもひどいと感じた新作落語を3日間にわたって批判してしまったが、この演者にだってプロとしての覚悟はあったわけだ。
上手い下手はあるにしても、少なくともプロはプロ。アマチュアやセミプロとの差は、この部分で本質的に大変大きい。

ちなみに昇太師の名言。アマチュアの落語は、お父さんの料理。プロはお母さんの料理だそうな。
たまに作るお父さんの料理がよく見えることがあっても、予算と冷蔵庫の中のものを考慮し、片付けのことも考えて作るお母さんの料理こそ、プロだと。

アマチュアには、どこかに逃げ道がある。あって当然。
そして逃げ道があったおかげで、私の松尾貴史という人についての印象は、落語を聴いてもマイナスのほうに傾きはしなかった。
プロではないため、聴いていて特に反発も感じない。こんな落語をTVで流しやがってと怒りはしない。

改めてつくづく、プロは大変だなと思った次第。
たまにはそうした思いを知るために、プロ以外の落語を聴くのもいいものだと思った。

現在、落語芸術協会の客員に、アナウンサー上がりの「六華亭遊花」という女性の芸人さんがいる。
東北を中心に「東北弁落語」で活躍している人だが、プロの集まる協会の客員にまでなったということは、きっとこの人にはプロとしての覚悟があるのだろう。
一度聴いてみたいものである。

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作成者: でっち定吉

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