丁稚的落語を聴く生活

私は今、月に二度程度落語を聴きにいく生活を送っている。ほとんどが寄席である。
落語会のチケットを買っておいてその日を楽しみにする、ということはまったくしていない。
志の輔師や談春師など、生で聴かずに一生を終えそうだ。こちらのライフスタイルに合わなければそれもやむを得ない。

白酒師がよくマクラでネタにしているが、落語会では、演者も100%客を満足させなければならない。「もうしばらく落語はいいや」というくらいに。
一方、寄席は日常なのでそんなに力を入れず、「今日の落語、面白かった?」「・・・また行こうか」くらいだと。
本当に力を入れていないかどうかはともかく、そちらのほうが私の現在の興味には合う。

もともと寄席中心だったわけではなくて、東京かわら版をチェックして地域寄席に出向いたりもしていたし、たまにホール落語にも行っていた。
何年か前、「春風亭」を集めた会に出向いた。あらかじめチケット買っておいたわけでなく、当日券を求めてである。
メンバーは小朝、昇太、一之輔の各師。すごいメンバーであるが、極めて欲求不満、不完全燃焼で帰ってきた。
この会の経験が、どうもトラウマになっているらしい。
ちなみに、なにが不満だったのか、もはやはっきりとは思い出せないのだが、小朝師にまったくハマらなかったことは覚えている。どうせ「紀州」でもやったのではなかったかな。
ずいぶん昔にホール落語で小朝師の「藪入り」を聴き、いたく感動したことがあったのだけど。
趣味として落語を聴く人から見放されて久しい小朝師、自分の耳でちゃんと確かめようと思ったのもあったと思うのだが、結果絶望して帰ってきた。
しょせん当日券で入った会に、そんなにトラウマを受けなくてもいいのだが、どうもそれ以来明確な寄席志向に変わったらしい。

そして、寄席で大外れしたということは、最近ほとんどない。むしろ、当ブログでご紹介しているように、大当たりがずっと続いている。
寄席だって日にいくつもあり、ある程度知識があれば選べる。単なる偶然の結果ではない。
といって「落語は寄席で楽しむもの」だと大上段に言うつもりはない。単なる私の嗜好であることは自覚している。嗜好に合った場所が存在していて嬉しいなとしみじみ思う。

広瀬和生氏に言わせると、評論家が初心者に「寄席に行け」というのは大変無責任な行為だそうである。
寄席自体を否定しているわけではないようだが、面白い寄席とつまらない寄席があるのだから、と。
別に無責任とは思わないけど・・・「寄席」というのは、単に落語を興業している場所のことでなく、落語界のシステム全体を指す言葉。
「寄席に行く」というのはシステムを経験するということだ。その中に当たりハズレは確かにあるけども、システム体験へのお勧めを無責任と言われても。
まあ、私だって、「この日の寄席に行ってみたいのですがどうでしょうか」と訊かれれば、「ちょっと主任が弱い気がするけど、これだけまわりを固めるメンバーがいれば悪くないんじゃないですか」「この日の新宿だったら、鈴本のほうがメンバーいいですよ」くらいは言うと思うけど。
いい寄席も悪い寄席もあると思うが、いずれにしても「システム」全体に対して共感を持てなかった人は、落語はもう聴かないと思う。
反対に、興味を持つ人は、システムのどこか一部に引っ掛かっている。どんな席でもシステムは機能しているのである。

落語の書物を紐解いていると、立川談志が「寄席」というぬるいシステムにどれだけ危機感を抱いていたのかを改めて思い知る。
上澄みだけ持っていかれてしまった濁り水を、私は今喜んで味わっていることになる。あくまで立川流から見ての話だが。
その後、寄席もよくなったのだと思う。だが、システムと相容れない人は、システムの外で独自の活躍をすれば、それでいいのではないだろうか。客もしかり。

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ホール落語に背を向け、ているつもりもないが、好んで寄席ばかり行っている。
寄席というものの性質上、前々からこの日を楽しみにしていた、ということもない。行けるときに行くし、止めたければ止める。
だが、行けば結果として外さない。特に落語協会の寄席はまず外さない。
寄席の混雑度は主任次第であるが、主任が弱くて客の入りの薄い寄席であっても、脇を固めるメンバーがだいたい充実している。
「寄席を経験してみたい」という人には、芸術協会より、落語協会の席のほうがお勧めではある。
始めて行く人は、「新宿末広亭」に行きたがる。「昭和元禄落語心中」で落語に興味を持ったという人なら、なおさらだろう。
「雰囲気を味わう」という楽しみを、なんら否定するものではない。番組内容より雰囲気だって別に構わない。
でも、私が勧めるならば、上野の「鈴本演芸場」だ。ここは、落語協会の芝居しかない。寄席の中でも格が上である。
昼夜入れ替えありだが、聴き始めの頃は、昼か夜、どちらか聴いたらぐったりすると思うから、入れ替えで十分。
といいながら、私は池袋に行くのですが。池袋はアルコール禁止ですので念のため。

広瀬和生氏は、「寄席に行け」と言うのは無責任だという。だが、「鈴本演芸場に行け」というのは、ちっとも無責任ではなく、大変具体的なお勧めだと思う。
鈴本に一度行ってみて、面白さが全然わからなかった人は、あきらめて別の趣味を見つけたらいかがでしょう。

初心者には落語協会の芝居をお勧めする。しかし個人的に、落語芸術協会に含むところはない。メンバーが落語協会に比べて薄いのは、事実であるが罪ではない。
今年は、芸協の寄席にも積極的に行って、いいところを見つけ出そうと思っている。
そう思って先日、芸協の寄席、しかも「上野広小路亭」に行って楽しんできたところである。
行くとライブはいいものだとつくづく思う。

他方、自宅でTV録画やCD、ラジオの落語を聴く。これはこれで実にいいものだ。
現在、ライブ至上主義というものが幅を利かせている。ライブの落語が素晴らしいのは確かだが、だからといって録音・録画の落語を拒否するのはよくわからない。
尽きるところ、メディアを通した落語は、ライブの再現性に欠けるということのようだ。
だが、私に言わせれば、なぜ自宅でもってライブと同じ種類の感動を味わう必要があるのかさっぱりわからない。
DVDやTV録画より、音だけのほうが想像力を喚起するから比較的いい、などとも言うのだが、この区別にもさして意味はないと思う。所作をじっくり見たほうが楽しい師匠もいる。

メディアの落語のいいところは無数にある。
まず繰り返して聴けること。就寝時に聴くという、とても気持ちのいい楽しみも味わえる。
そして、お気に入りの師匠を見つけるカタログ機能もある。
こういう落語を拒否する人は、「落語は現場にしかない」と思っているわけだから、そもそも論争にはならない。
しかし、落語を聴いて感動したとき、その感動について深掘りしようとすることが、悪いわけはない。深掘りするためには、録画を止めて、戻して再現する。そうしているうちに見えてくるものがある。
メモも取り放題。

堀井憲一郎氏を念頭に置いて反論を書いている。堀井氏も落語について深掘りするときに、CD等を活用しているはずなので、いささか自己矛盾ではなかろうか。
とはいえ、氏のことは実のところ相当に好きである。
落語について語ろうとするときは、ユーモアが不可欠だと思っている。ユーモア、というかギャグまみれであるが文章力の高い堀井氏には大きな敬意を払っている。

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TVの録画等、メディアの落語においては、好きな聴き方が許される。マクラを飛ばしたってかまわない。
面白いギャグを何度も繰り返して聴いたっていい。
堀井憲一郎氏は、TVで落語を真剣に視ていると、アングルがよく変わるので気持ち悪くなると書いている。
どうして「真剣に」視ようとするのかわからない。

ただ、堀井氏の言葉にも一理ある。TVを好きなように聴くことをデフォルトにしてしまっている客は、逆にライブにおいてこの好き放題をフィードバックしてしまうことがあるのである。
携帯鳴らしたり、隣の人にサゲを先に言ってしまったり。
そこまで行かなくてもやたらガサゴソしたり。
先日上野広小路亭で、トリの昔昔亭桃太郎師のマクラの最中、座椅子席の最前列で立ち上がって帰り、桃ちゃんと話まで始めてしまったお爺ちゃんのことを書いた。
こういうハプニングもブログのネタとしては面白いが、「落語」からしてみると災難以外のなにものでもない。「天災」ではない。人災である。
公共の場にふさわしい行動のとれない人は困ったものだ。ちなみに、年寄りのほうがだいたいタチが悪い。

ライブで素晴らしい落語を聴いて、このすばらしさを他人と分かち合いたいと思う。これが悪いこととは思わない。私も現にやっている。
ただ、ライブの落語を聴きながら、目の前で繰り広げられている情景を必死でメモに書き写しているのだとしたら、これには賛同しない。
ライブというもの、まさに目の前でたちどころに消えていくものである。その姿を残したいと思うのは人情。だが、リアルタイムに情報が消えていく記憶装置に抗おうとするなら、脳をフル回転させて聴く以外にないのではないかと、私はそう思っている。
内容を覚えていられなかったのであれば、たぶんそのネタは覚えておく価値がなかったのだ。

噺家さんはよく「落語なんてものは皆さまの暮らしにはなんの役にも立ちません。ぼおーと聴いておいてください」などとマクラで語る。入口としては確かにそうだ。
まず、ぼおーと楽しむのも聴く技術の第一歩。この段階で、落語に入ってこれない人もいるのだから。
ぼおーと聴くスキルのある人は立派な落語好きを名乗れる。

記録のため、プログラムに演目を書いておくくらいは反対しない。
だが、百栄師のマクラに出てくるような、隣の知らない人と演目の速書き競争をしているような人はみっともないと思う。「こんなに早く演目の分かったオレってすごい」と。
演者さんの入れ替わるタイミングで書けばいいじゃないか。
寄席に行き、自己顕示欲をむき出しにして聴くのは野暮だ。ひとりだけ変な笑い声を上げるのもこれと同様。
なるべく気配を寄席と一体化して聴きたい。
「待ってました」「たっぷり」は反対しません。
ただ、「待ってました」が礼儀だと勘違いして、代演の人にまで「待ってました」と言うとたちまち野暮になる。

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噺家さんにとって、メモを取られる行為は非常に嫌だろう。
語った端から消えていく言葉を、目の前で文字に記録されるのは気分のいいことではあるまい。噺家さんは記者発表をしているわけではない。
メモをせっせと取るということは、落語が語られるその空間に一体化しようとしない行為なのだ。
ただ、寄席でおしゃべりしたりする迷惑行為と同列に論じたいわけではない。マナー的にどうだと言う以前に、スマートじゃないなと思うのである。
せっせとメモ取るより、心を解放して噺家さんの語りに耳を傾けるほうが、結果的に内容も記憶によく残るはずである。

まあ、わかるんだけど。
楽屋ネタで声を張り上げて笑うこと、珍しい会に行って内容をマクラまでレビューすること、ありきたりのクスグリをスルーすることなど、すべて自己顕示欲むき出しの行為。
そういう気持ちの現れ自体を許さないなどというつもりはない。
私にだって自己顕示欲があり、それが原動力になって毎日このブログを更新しているのである。独自の解釈をぶつけて、読んでくださる人にアピールしたい気持ちだってある。
ただ、自己顕示欲をむき出しにして落語を聴くということ自体、寄席への気持ちの一体化への妨げになるのである。結果として楽しく落語を聴く能力が向上しないのでは。

ただ、実は私にも、野暮になりかねない癖がある。
サゲが終わった後の拍手と、「中手」が必要な場面の拍手。これをいち早くやってしまう。
寄席と気持ちを一体化しようするあまり、演者のために必要なことを先読みしてしまうのである。
ただ、師匠小さんに教わった通り、「中手」が来るに値する芸を見せながら、これを拒む市馬師匠のような人もいる。
また、サゲてないのに手を叩いてしまった人のいた高座もTVで何度か視たことがある。工夫したサゲだとこういうこともある。
フライングで手を叩いた人が、演者に気を遣って手を叩く人なのか、クラシックの音楽会に現れる「ブラボーマニア」と同じ種類の人なのかはわからない。
「ブラボーマニア」というのは、まさに自己顕示欲が肥大化した存在である。
フライング拍手の高座の一人は、昔昔亭桃太郎師匠。この人はニヤっと笑ってみせ、ギャグにしていたからいいのだけど。

寄席に気を遣い過ぎるのも客としてよくない。だが、寄席でできたら味わいたくない感情の筆頭が、「いたたまれなさ」というもの。
まるでウケてない師匠が、堂々としているのではなく、開き直って高座を務めているときにいたたまれなくなるのは仕方ない。そんな寄席に来てしまった自分が悪いと思ってあきらめる。
だが、客が演者のやっていることをよく理解できていなくて、迫真の高座にケチがついたりすることで生じる「いたたまれなさ」はできる限り避けたい。それでつい、演者さんの求める方向に寄席を誘導したくなってしまう。
しかし、それで失敗すると目も当てられない。くれぐれも気を付けたいものである。
それ以前に、演者じゃないのに高座をどうにかしようなどと思うのがいちばん野暮かもしれない。
そんなことを考えながら落語を聴いております。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。