笑点メンバーの落語

世間の人は、「落語」と聞くといまだ「笑点」を連想する。まあ、仕方ない。
だが、「笑点」ファンと落語好きとは、かなり異なる存在である。
「笑点メンバーがうちの県民ホールにやって来る」と聞きつけチケットを買って、生まれてはじめて落語を聴いて「落語って面白いわね」となる美しい出逢いもあるけれど、基本的には別物である。
ほとんどの笑点ファンは落語なんか聴かないと思う。「笑点で面白いか」が、タレントとしての笑点メンバーに対する評価のすべてである。
「笑点メンバーの落語」より、地元のTV局開局記念でやる、笑点の公開収録のほうによほど行きたいだろう。

反対に、落語ファンを自認する人の中には、笑点をまったく無視し、中には蛇蝎のごとく遠ざける人までいたりする。
笑点新メンバー発表前に、春風亭一之輔師がラジオで、「どうか笑点なんかに出ないでください」とファンに言われたと語っていた。一之輔師、「依頼もないのに出られるか」と。
そこまで落語好きをこじらせなくていいと思うが、それでも確かに、「笑点」の世界と、自分の好んでいる落語の世界、同じ世界には思えないところがある。

個人的には、高校生くらいまで「笑点」、毎週大変楽しみにしていた。大喜利だけでなく、40分時代の演芸コーナーも大変好んでいた。
今、わが家でいちばん好きな噺家さん、柳家小ゑん師匠の若かりし日の新作落語を、「笑点」の演芸コーナーで三回ほど聴いたのは、いたく印象に残っている。「ぐつぐつ」もあったのである。
さらに他の演芸番組でもって、いつも落語・漫才・コントその他を楽しんでいた。
笑点メンバーでなくても、世間に人気のある噺家さんという人は多数いた。当ブログでも、先代小さん、柳昇といった人たちのことはたびたび書いている。
面白落語をする人たちにも結構馴染んでいたのだ。先代三平には間に合っていないけど、円歌師匠や馬風師匠、かつての小朝師匠や亡くなった圓蔵師など。
だからTVの世界で「笑点」だけをありがたがる心境自体が、そもそも私にはピンと来ないところがある。
でも、現にそういう人気者を切り落としたところで「笑点」を楽しんでいる人が無数にいる。

まったくの別物、だというならそれでもいいのだが、新作落語の評価が大変高い春風亭昇太師が司会をやっていたりするので、たまにクラクラすることがある。
そして、一応噺家が出ている番組なので、たまにその、異なる二つの世界にブリッジを掛けたくなる人がいるようだ。その心情はよくわかる。
実際、Yahoo知恵袋など眺めていると、

  • 笑点メンバーは落語の上手い人たちでないと聞くが本当か
  • 笑点メンバーでは誰が落語が上手いのか

などという質問が目につく。そして、「笑点メンバーなど落語はみなヘタクソです」などという回答がベストアンサーに選ばれたりする。

そんな世間に対して、漠然と回答するつもりで進めていきます。

最近、また笑点をちょくちょく視るようになった。
メンバーの高齢化が問題視されるが、でも「常に躁状態のジジイ」集団というのも、それはそれで楽しいよな、とちょっと思ってはきました。つまり、ジジイだからいいのだと。

黄色

「笑点メンバーの落語」について。ひとりずつ取り上げていきます。
最年長の木久扇師匠からいきましょうか。
私の子供のころから笑点でバカをやっていて、そして私の息子が見ている今の笑点で、やっぱりバカをやっている。
今も昔も、子供はバカな大人が大好きである。
バカキャラひと筋の木久扇師、偉い人だ。TVタレントとしては大いに尊敬する。

落語のほうでの木久扇師、知っているような知らないような。
弟子には、売れっ子である林家彦いち師がいる。びっくりするほど師匠に似ていない弟子だ。
彦いち師に限らず、きく姫・きく麿・ひろ木などユニークな弟子がいるのだが、師匠と同じバカキャラで売っているのは息子の二代目木久蔵だけである。
息子以外との師弟関係はよくわからない。弟子たちに対してどんな師匠なのか、まるでわからない。
息子とのツーショットばかり露出しているのも、よくわからない。
息子が門下にいる師匠はたくさんいるが、息子を特別扱いしないことにしているのが主流だと思う。
もっとも、特別扱いしない、としておいて、実のところ襲名等で特別扱いするというのもまた主流。そう思うと、木久扇師匠の露骨な息子贔屓は、裏表がないともいえる。
そもそも、息子の木久蔵師じたい、ひと様に嫌われるキャラではないので特にやっかみもなさそうだし。

木久扇師匠、寄席で拝見したことはない。
ただ、「彦六伝」は子供のころからTVで何度も目にしている。
昔は、おじいさんであった師匠のマネをしていたのだが、今やご本人がおじいさんになってしまった。
「彦六伝」と、あと「昭和芸能史」をずっと聴いてきている。最近も「柳家喬太郎のイレブン寄席」で「彦六伝」を聴いたばかり。
こういう漫談芸を、「落語ではない」と切り捨てる向きもあるだろう。切り捨てる人に限って、長いマクラの小三治師をありがたがったりして。
でも漫談にだって「話芸」はあるのだ。
漫談の同じネタをずっと続けている人というと、円歌(中沢家の人々)、馬風(会長への道)の落語協会両会長経験者などが思い起こされる。いつ見ても感心する芸。

「日本の話芸」で木久扇師の「道具屋」が掛かった。
NHKだから公式にはそう言えまいが、木久扇師がこのたびCDを出したので、コラボ企画なのでは。
「日本の話芸」のイラストを描いている功労者だから、それくらいのご褒美はあってもいい。
子供のころから耳にしている木久扇師の落語だが、古典落語を聴くのはもしかして初めてかもしれない。
だが、この「道具屋」、グダグダで正直びっくりした。なんだこれ。
マクラの「彦六伝」が長く、「道具屋」本編はおまけのような扱い。まあ、「彦六伝」あっての木久扇師、それはいいとしよう。
「古典落語の面白さ」は皆無である。面白いところがあるとすれば、すべて木久扇師のキャラによるもの。
笑点と同じくピコ太郎をパロッたりしている芸。
ただ、「抜けませんよ、木刀ですから」。この、ごくあたり前の場面で、本来起きるはずの笑いが皆無。客も大いに戸惑ったと見える。
まあ、こういう噺家さんなのだ。

桃色

次に、当ブログで最近取り上げたばかりの三遊亭好楽師。
最近、好楽師匠が妙に好きだ。
「仕事ない」ネタとドヤ顔、「池之端しのぶ亭」だけで大喜利を乗り切っている好楽師匠。この師匠に、新たな魅力を見出したところだ。

もともとは、弟子のおかげである。
好楽師、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの兼好師を弟子に持つ。
そして二つ目に、芸人上がりのユニークな、「とむ」がいる。
いい弟子に恵まれた師匠は幸せだ。
柳家さん喬師や、春風亭一朝師など、もちろんご本人自身も立派な噺家だけど、弟子のおかげでだいぶ得をしていると思う。
そしてそういう一門からは、さらに別のいい弟子が出てくる。はずだ。
弟子ではないが、息子の王楽師がさらに伸びると、好楽師もさらに注目されるはず。王楽師は、真打昇進の頃の若々しい感じがなかなかよかったと思うが、もうこの魅力は売り切れていると思う。これから先は別の味が必要である。

好楽師、弟子と息子に恵まれた幸せな師匠かもしれない。だが、この師匠の場合、単に運がいいというより、弟子をのびのび育てた見返りなのではないかと私は思っている。
この師匠あっての弟子たちなのだろうと感じさせるのである。

好楽師の落語の腕は、笑点のネタにされているのはさておき、客観的な評価としては、いまひとつかもしれない。
CDが出ていないのは、需要がないからだろう。
だが、不思議なもので、この師匠の人柄を好きになったうえで落語を聴くと、そんな落語が、大変楽しく聴こえてくる。
落語ファンなら経験上ご承知だろうが、好きな噺家さんというのは、だいたい最初の出逢いから好きなものである。いったん好きだった噺家さんが苦手になってしまうことがあっても、逆はあまりない。
若手についてこの人伸びたなあ、と思うことはあっても、ベテランの噺家さんが急に面白く感じるようになることはなかなかない。
好楽師、苦手にしていたこともなかったが、さして面白いとは思っていなかった。なのに、ここに来て妙にハマる。

私の録画のコレクションに「肝潰し」などというやや珍しい噺がある。木久扇師匠の師匠でもある、先代正蔵(彦六)譲りの噺。
よんどころなく、弟分の命を救うため、実の妹を殺して生き胆を取ろうとする、やるせなく不気味な噺である。
だが、好楽師が掛けるこの噺、妙にとぼけていて、変な生々しさがない。だいたいにおいて好楽師自体、とぼけている人だ。
滑稽味に向かうでもなく、人情噺としてまとめるでもなく、「こういう落語」として堂々と語る話術。
兼好師によると、好楽師はこんな噺を学校寄席に行って平気で掛けるらしい。それもすごいけど。

水色

続いて三遊亭小遊三師匠を。
笑点メンバーの中で、「古典落語」の実力が、世間に普通に浸透している点では、この師匠が筆頭だろう。
落語の世界で、若い頃から売れていた人である。
笑点で落語が披露されることも多く、それ以外でも、師の高座は、NHK「日本の話芸」その他でよく放映されている。
小遊三師、ベテランになっても軽い滑稽噺しかしないという、なかなか得難い人である。大家になると、大ネタをやりたがるのが普通だが。
特に地方の落語会だと、人情噺は大変な飛び道具になるようだが、自分に合わないネタは小遊三師は手掛けないらしい。

笑点のキャラ通りに、「置泥」などの泥棒噺は得意にしている。
あと、小遊三師ならではの演目が、「夜這い」の噺「引越しの夢」。
出囃子が変わっていて、いにしえのアメリカ映画「腰抜け二挺拳銃」主題歌の「ボタンとリボン」である。昇太師の「デイビー・クロケット」とともに珍しい出囃子。

古いムック「落語ファン倶楽部Vol.18」で、昇太・たい平両師を迎え、小遊三師が鼎談の主役を務めている。
昇太師が、「落語全体が演劇化していく流れの中で、その流れと全然違うところにいる」と、小遊三師の軽い噺を絶賛している。

小遊三師は、落語芸術協会の副会長である。現会長は桂歌丸師。
以前は笑点で「便所でお尻を拭く会長」と挨拶していたが、抗議が来てやめたとか。
歌丸師はもうすぐ会長の座を降りることと思う。そうすると、小遊三師が会長昇任で間違いあるまい。
司会の座は昇太師に譲られたが、会長の座は小遊三師に譲られるのである。

「小遊三」という名前は「遊三」の弟子だからである。
遊三師匠は結構な高齢だがまだ現役。もっとも、芸協は91歳の師匠が二人も高座を務めているという、超高齢化組織。
「三遊亭遊三」というのは、上から読んでも下から読んでも同じ、回文のシャレ名前。
比較的師匠と年齢の近い、小遊三師匠がこの名前を継ぐ可能性は極めて低い。一生「小遊三」だろう。

小遊三師の落語、難をひとつ言わせてもらうと、いつも一定のレベルを保持しているものの、圧倒的な高座というものが少ないように思うのだ。
私が見ていないだけかもしれないけど。

小遊三師のアキレス腱は、弟子があまり育っていないこと。
弟子の中では、三遊亭遊馬は評価が高い。ただし、師匠とは真逆のカチっとしたスタイルで売っている。
三遊亭遊雀も売れっ子であるが、この人は元柳家権太楼門下で、真打になった後に師匠に破門されて芸協に移った人だから、普通の弟子とは違う。居場所のなくなった遊雀師を拾った、小遊三師の情は大いに感じる。

残念なことに、私の寄席経験における、もっともつまらなかった席が、小遊三師が主任を務めた国立演芸場の定席である。
寄席の番組編成として、主任の一門の噺家が揃って出るのは当然なのだが、その一門のレベルが低いと目を覆わんばかりの状態となるのだ。
この芝居に遊馬師はおらず、まだ遊雀師もいなかった。
他の寄席であれば、席亭の意向でまだちゃんとした人が入るのだけど。
まあ、今ならば一門の「ナイツ」が出たりして、まだましなのかなと思います。

(2018/2/7追記)
おかげさまで、「遊雀」「遊馬」「ナイツ」も顔付けされた、小遊三師匠主任の国立に行き、楽しんできました。
トラウマが払拭できてよかったです。

(2021/4/16追記)
「圧倒的な高座というものが少ない」と小遊三師に失礼なことを書いた。
聴き方が上達した結果、そんなことは思わなくなった。圧倒的な高座も、客が大したことがないと響きません。

橙色

「徹子の部屋」、好楽師匠の回、実に面白かったです。ご本人が緊張していた喬太郎師の回より面白かったですね。

次に林家たい平師。
この方は、ちゃんと本業の落語をやっていて、そちらのほうでの人気はちゃんとある。
いや、ほかの師匠方がちゃんとやってないわけじゃない・・・と思うけど。

たい平師、非常に芸にマジメな人である。よくこのように評されているが、本当にそうなんだろう。
このマジメな師匠の落語、聴いていると、いつも複雑な心境にならざるを得ない。明るくて一生懸命で、気持ちがよくて楽しい人なのになあ、と。
おなじみの「花火」「モノマネ」芸など、やたらと器用な人でもある。これらの芸を入れ込んだ、楽しい落語を聴かせる。
柳家喬太郎師によれば前座の頃からアイディアマンだったようだし、人柄も間違いなくいいようだ。同業者から悪く言う声もあるまい。
たい平師の落語、つまらないわけではない。だが、「笑点」の看板を外して芸を冷静に見たとき、残っているものはなにか。
とてももったいない芸であり、芸人さんだという印象を常に抱く。

たい平師は昔から目立っていたようで、真打昇進は抜擢である。一緒に昇進したのが柳家喬太郎師。
喬太郎師と比べなくてもいいのだけど、落語を一生懸命やっている、抜擢でない同世代の噺家と比べたとき、たい平師にアドバンテージが残っているだろうかと思ってしまう。
比較の対象は、白鳥・文蔵・遊雀・扇辰・彦いち・白酒といった師匠たちである。

たい平師の落語だが、今はやりの、アレンジ満載面白古典とはちょっと違う雰囲気。
「禁酒番屋」で、二番目の油徳利に替えて、師は「ランドセル」に隠した酒を番屋に持ち込む。
「干物箱」の声色では、大滝秀治のモノマネを入れる。
確かに面白いのだが、でも、「落語」世界の中において、やたら面白いというわけでもない。「笑点を視ていると面白い」という程度のギャグだ。
ランドセルの酒を見とがめられ、「飲んで覚える漢字ドリル」だと強弁するギャグ、面白いことは面白いのだけど、「落語」世界にどこまで貢献できているのか。

全体的にはとても楽しいのに、観ながらいつも、なにかしら悩んでしまう芸だ。
器用すぎて、かえって「これ」というスタイルが完成されていないためかなと思う。
三遊亭白鳥師の新作落語は、自他ともにめちゃくちゃだと言うけど、その噺の世界観の中では、驚くほどの整合性を有している。
桃月庵白酒師や、春風亭一之輔師の面白古典落語にも、ずいぶんギャグが入るけれども、落語世界を破壊してしまうようなギャグをぶち込むことは少ない。
「飲んで覚える漢字ドリル」、さすがにたい平師自身が、噺の中で「だから林家一門はバカにされるんだ」とツッコミを入れている。

同世代は層がやたら厚く、ひと味もふた味も違う落語を世に送り出している。
同門の三平が加わったことでもあるし、笑点辞めて落語に専念すればいいのにな、と思う。もっと高いレベルに行っていただきたいと願ってやまない。
もっともよく考えれば、せっかくの座布団利権を手放して、見返りに落語が上手くなる保証などどこにもない。
「噺家」人生を考えたとき、才能ある噺家さんにとって「笑点」も功罪半ばだよなあと思う。いや、歌丸師のように「功」に持っていくのもご本人次第ではあるのだけど。

緑色

ちょっと捻って、次に笑点名誉司会の歌丸師を。

私の子供のころからお爺さんで、今でもお爺さん。お爺さん度がどんどん増していった師匠。
この世に生を受けたときにすでにお爺さんではなかったのかと思ってしまう。
歌丸師の師匠の米丸師が91歳でまだ現役というのも不思議。歌丸師のほうがよほどお爺さんに見える。
かつて笑点での、小圓遊とのバトルはかすかに覚えている気がする。

歌丸師、「笑点」は噺家の余技でなくて本当にライフワークにしていたようである。
柳家権太楼師の本にしっかり書いてあるのだが、かつて権太楼師がNHKのラジオで「笑点のネタにはみんな台本がある」とバラしたところ、生放送中に歌丸師から「余計なことを言うな」と脅迫電話が掛かってきたという。
「笑点」に台本があろうがなかろうがどうでもいいが、このたび加入の新メンバーによって、「台本があろうがなかろうがつまらない人はつまらない」という事実が世間に明らかになった。純粋な笑点ファンの皆様は安心しているのではなかろうか。
本業の落語を思い起こせば、当たり前の理屈ですがね。
いっぽう、噺家の資質とは、「なぞかけ」のような頓智が効くことだ、という世間の思い込みで、迷惑に思っている噺家さんも多いようですが。
笑点とは関係ないが、「噺家さんは教わった噺を全部覚えているから凄い」などという誤解もあるようである。全部覚えている人なんていやしない。
何の準備もなくいきなり落語やれと言われて、喋れる噺が30席あったら相当にすごい噺家だ。
季節ものの噺は、シーズン前に一度さらってからでないととても掛けられないらしいし。
噺家さんの価値がどこにあるか間違えてはいけない。役者さんと比べてみればいい。

話がそれた。
笑点に情熱をささげる一方で、本業での名声も求めたのか、歌丸師は三遊亭圓朝の怪談噺に進んでいった。
歌丸師の圓朝噺について、他の噺家さんと比べて論評するだけの見識は、今の私にはない。ただ、こういう噺をやる人がいないと落語界が困る。
怪談噺・人情噺の評価は確立している歌丸師であるが、私にとって忘れられないのは、子供の頃たぶん「笑点」で視た軽いネタ「短命」である。歌丸師の場合、短命だと縁起が悪いので演題は「長命」。
「短命」、その昔はバレ噺であり、TVで掛けるような内容ではなかったようだ。
だが、歌丸師の「長命」、いやらしさはないが色気はあり、大人のいい噺だなあと子供心にいたく感銘を受けたものだ。それ以来、「短命」が好きになった。
今では「短命」くらいでは放送コードにまったく引っかからないからよくTVでも掛かるが、八五郎の察しの悪さでウケてしまう噺なので、なかなかご隠居さんの立場から、色気をもって聴かせてくれない気がする。
歌丸師、軽い滑稽噺はお好きなのではないか。歌丸師の演目では「つる」も印象深い。

歌丸師、もともと先代古今亭今輔門下だったので、若い頃は新作をやっていたという。今の新作とは違うけど。
「新作落語」をやることの、噺家さんへの効用はよくご存じのようである。
弟子は案外少なく、そして惣領弟子の歌春師(生え抜きではない)を除き、売れている弟子がいない。
ただ、四番弟子の歌蔵師の書いた小説「前座修業」はとても面白かった。小説に登場する、歌丸師がモデル、というかそのままの師匠はとても厳しい人である。
そして、初席のTV中継が自分でなくてやたら機嫌の悪い、人間臭い師匠。
みな、弟子のためにと思って厳しい修業をさせるのだが、厳しい師匠から意外と優れた噺家は出てこなくて残念。

紫色

TVに出ていた瀬古利彦氏を見て、楽太郎時代のモノマネを思い出した。腹黒キャラの当代三遊亭円楽師について。
私にとっては、笑点よりも「プロデューサー」のイメージである。春風亭小朝師の小型版という印象。

小朝師は、落語界で数々の企画を立ち上げているプロデューサーである。木久扇木久蔵W襲名や、海老名家(正蔵・三平)の襲名もこの人の仕掛けだ。
東西各派から集まった「六人の会」というのも立ち上げた。ただ小朝師は立ち上げるのはいいのだが、持続するのが不得手なようだ。結婚生活と同様。
説明不足で、仲間の噺家の誤解を招き自滅してしまうようである。「六人の会」や「大銀座落語会」に関しては、笑福亭鶴瓶師から小朝師に、批判的なコメントが寄せられている。

それに比べると、円楽師のプロデュースの評判は悪くないのではないか。
小さな所帯の円楽党にいてプロデュースをするのはハンディだと思うが、そこは笑点外交がものをいう。
芸協の桂歌丸会長に近いので、そのラインでもって、過去に自身の円楽襲名披露を、本来出られない寄席で実現したりしている。
ただ、芸協とのコラボで、永続的に円楽党を寄席に出られるようにしたかったようだが、これはうまくいかなかった。
「博多・天神落語まつり」も最近の円楽師の活躍だ。
東西問わず噺家を集める同会の特色から、上方の噺家さんにも顔が広いのは立派だ。

「笑点司会者の座を昇太に奪われた」というネタ。
シャレといえば100%シャレだろうが、ただ先代円楽⇒歌丸と続いた司会者の座について、先代が歌丸師に、当代への移譲を頼んでいたことは十分考えられる。
先代円楽、通称馬の円楽は、二番弟子の楽太郎師、つまり当代円楽師を気に入っていたようである。「○太郎」というのは惣領弟子に付ける名前だ。なのに二番弟子に「楽太郎」。
惣領弟子の鳳楽師をないがしろ、とは言わないが軽んじた結果が、少し前に世間を騒がせた「三遊亭圓生襲名問題」に発展したのだと思う。
お気に入りの二番弟子に自分の名前をやるとなると、惣領弟子にはもっといい名前をやらなければならない。それで、自分が持っているわけでもない師匠の名前を継がせるしかなかったのではないか。
その、馬の円楽師、ライバル談志のことを「弟子をちゃんと育てたから偉い」と評していたそうである。
馬の円楽師の弟子は、談志に負けず非常に多いが、質の面では育てられなかったという自責の念があるようだ。だから、当代円楽師も含めた、弟子の噺家としての腕については、さして高い評価はしていなかったようではある。

プロデューサーとしての当代円楽師には、私も大きな敬意を払っている。
だが、円楽師の落語自体はどうか。
生で聴いたことがないのはお断りしておく。たまに視るTVでの印象だけである。
「人情噺は上手い」という印象。「藪入り」など。
しかし、「人情噺しかできない」という印象を、失礼だけど抱いている。滑稽噺はいまひとつ。
現代の落語事情においては、人情噺より、まずは滑稽噺の上手い人のほうが、評価が高いのである。
ただし、地方の落語会などで二席やるとき、一席を人情噺にするとポイントが高いらしい。人情噺のほうが、客の満足度が高くなるようだ。
だから、地方の会で円楽師の高座を聴いて感動した、という人はきっとたくさんいるのでしょう。
そのことを悪く言う気はないが、人情噺だけでは噺家の評価、上がらないのもまた事実。

弟子は育っていない。伊集院光は元弟子だが、噺家を続けていて大成したかどうか。

(2018/6/3追記)
この記事を書いた後から、円楽党をずいぶん聴くようになりました。
円楽師の弟子、面白い人が実に多いです。聴きもせずに「育っていない」と言ったこと、反省してお詫びします。

鼠色

「笑点メンバーの落語」について長々書いている。「笑点」の大喜利について書いているわけではない。
笑点を視るのは、ほとんどが「笑点特大号」。「プレミアム落語」に当たりがあるので録画しているに過ぎない。
とはいえ、新司会の昇太師、大喜利をぼんやり視ていると、司会が上手いなあと思う。

昇太師、今や新作落語界の第一人者である。本業のほうのイメージが十分に強い。
ずいぶん長いこと笑点に出ている割には、落語における昇太師と、笑点での昇太師とが、私の中で一致しないところがある。
といっても、笑福亭鶴光師匠がラジオのファンと落語のファンを完全に切り分けているというように、昇太師が異なるふたつのフィールドに別々に存在しているという感はない。
それどころか昇太師の場合、落語と笑点とのキャラがまったく一緒だ。一緒すぎて、逆に違和感を覚える。

「庶民の娯楽」だという建前と裏腹に、落語というもの、その実態は悲しいくらいインテリのためにある。嫌らしく言うなら「自分をインテリだとみなしている人」のためのものだ。
歌舞伎のほうがインテリ度がずっと高いとは思うけど、落語もやはりインテリのもの。
落語に対してインテリジェンスを嗅ぎ取る感性のある人は、少なくとも一度聴いてみなきゃとは思っている。落語ブームとは、インテリが世間に増えていくことである。
他方、世間には自分のことをインテリだなどとみなすことの一切ない人も大勢いる。当代三遊亭円楽師がインテリの代表だと信じているような人である。
こういう人にとっては「笑点」が知性の限界であり、それ以上のインテリジェンスを必要とする落語は聴かない。

落語と笑点とは、「知性」の扱いにおいてもっともすれ違う。
笑点メンバーは、自分の落語会では笑点ネタをぶつけまくる。二席あったら一席ではマクラに笑点漫談をやる。たい平師のように、噺の途中で笑点ネタを挟んだりもする。
笑点を視ている人が落語会に来てくれているのだから、入口のサービスとしては当たり前だ。
だが笑点ネタ、入れれば入れるほど、落語の中核にあるインテリジェンスを損ない、落語世界からどんどんズレていくという悲しい宿命にあるのである。笑点を強調し過ぎると、落語の世界観が歪んでしまうのだ。そして落語ファンの気持ちから遠ざかっていく。
こん平師など、寄席の高座でチャーザー村の漫談を披露していたが、これには強烈な違和感があった。その違和感、今になりよくわかる。
だから、笑点と落語と、同じスタイルのまま行くのは意外と難しい。
こん平師の弟子のたい平師も、同じスタイルを貫こうとして結果的に落語を犠牲にしている。

ところが昇太師だけはまったく違う。この人は、笑点でも落語と同じスタイルでやっている。
笑点をきっかけに落語のほうに来てくれた客にも、いつもの昇太スタイルを存分に見せつけて満足させる。「いつものスタイル」は、落語的世界とズレていない。
師にはもともと品がある。そして師の掛ける新作落語の中核には、間違いなくインテリジェンスがある。
昇太師は、躁病的トランス状態において落語のインテリジェンスを拡散するという、実に不思議な高座を務めてきた噺家さんだ。
知性と品に溢れる落語を見せているが、なにせ躁状態なので、知性に伴ういやらしさを決して客に感じさせない。
昇太師は、大喜利の司会を自身の落語と同じように仕切っている。ひとりでやる落語と、7人を取り仕切る大喜利、まったく違う作業のはずなのに。
ただ昇太師は、特に古典落語を掛けるときによくわかるのだが、「噺をねじ伏せる」剛腕の持ち主である。古典落語の素材を、自力で抑え込んでねじ伏せ、自分のものにする。
噺をねじ伏せられる人だからこそ、個性派だらけの笑点メンバーをもねじ伏せられるのであろう。
「メンバーが司会の言うことを聞かない」のではない。実は昇太師が「大喜利」というひとつの集団舞台芸を、手のひらで転がし、最終的に力業で品よくねじ伏せているのではないか。
もう少し、「芸」としての笑点司会をちゃんと視ておくべきではないかと、今ちょっと思っている。

昇太師、昇々さんをはじめ弟子が次々育っていてすばらしい。
弟子を絶対に叱らず、きちんとその素質を伸ばしている偉い師匠である。

無色

東京かわら版の3月号を見て、大変びっくりした。なにに驚いたかといって、「泰葉」が三味線漫談で、三遊亭歌る多師匠と「歌る葉」という女芸人ユニットを組んで出るのだという。
あの泰葉ですよ、「金髪豚野郎」発言の。本名海老名泰葉、先代林家三平の次女である。三味線漫談って・・・
フライデイ・チャイナタウン。
その昔、春風亭小朝師と離婚の際は、落語界は大いに盛り上がりました。あまり好ましい盛り上がり方ではなかったが。
怖いものに興味のある方は、明日18日の13時開場、吉祥寺のライブハウス「ストリングス」にどうぞ。

先代三平の海老名家は、未亡人が、海老名香葉子。なんだか知らないが力を持った人。
長女が峰竜太の奥さん、海老名みどり。記者会見を開くというので、マスコミが「離婚か」と集まったところ、「私はミステリー作家になります」と宣言して世間の失笑を買った。それ以来、豪邸に引っ込んでいる人。かろうじて、馬風師の漫談でまだ名前が出てくる。

長男が落語協会の現副会長、当代林家正蔵。元こぶ平。
正蔵師匠、襲名前後を問わず落語の腕についてはずっと批判を受けている人だが、決して言い訳したりはせず、日々古典落語に精励している。
師の芸が嫌いな人も、正蔵師が芸道に真摯であり一生懸命である点については、認めざるを得ないだろう。
「落語研究会」でよく掛かる師の高座、決して悪くないと思う。「いい」と断言するには、どこが引っ掛かるのかいまひとつよくわからないまま引っ掛かるのだけど。少なくとも、人間性に引っ掛かることはない。
正蔵師、CD出してないんですね。
落語研究会から依頼がある以上、CDの依頼だってあるだろうに、まだご本人が納得いかないものか。

落語に詳しくない人は、ごく一部の二世三世を見て、噺家も歌舞伎のように血がものをいうと思い込んでいたりする。
全然そんなことはない。「さすが○○さんの息子ねえ・・・」と勝手に感心された噺家は、志ん朝が最後だと思う。
正蔵師のほか、二世三世の噺家というと。

  • 柳家小さん   父は故・五代目柳家小さん
  • 桂米團治   父は故・桂米朝
  • 柳家花緑   祖父は故・五代目柳家小さん
  • 柳家小きん  父は故・六代目柳家つば女
  • 三遊亭金時  父は当代三遊亭金馬
  • 古今亭菊生  父は故・古今亭圓菊
  • 三遊亭小圓朝 父は故・三代目三遊亭圓之助
  • 三遊亭窓輝  父は当代三遊亭圓窓
  • 林家木久蔵  父は林家木久扇
  • 三遊亭王楽  父は三遊亭好楽
  • 桂春蝶    父は故・先代桂春蝶
  • 月亭八光   父は月亭八方
  • 桂三木男   祖父は故・三代目桂三木助
  • 柳亭小痴楽  父は故・柳亭痴楽
  • 三遊亭一太郎 父は当代三遊亭円楽
  • 林家たま平  父は当代林家正蔵
  • 桂りょうば  父は故・桂枝雀

いろんな人がいますね。
話題先行の人。話題にもならない人。実力がついてきたのに軽く見られがちな人。二世であることも、本人自体も知られていないがそこそこ上手い人。
まったく違う一門に入門したのは三本男だけ。いろんなところで断られて当代金原亭馬生師に引き取られたらしい。でも三木助の名は継げる。
たぶんリストには抜けがあり、他にも二世はいると思います。
それでも、東西の噺家が今や800人いるという中で、二世なんてこの程度なのである。

あれ、今日はなんの記事だったっけ。

「笑点メンバーの落語」はこれで終わります。

作成者: でっち定吉

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