寄席「雨竹亭」が焼けてしまった後の物語。
発火原因は不明。先代助六の幽霊が放火したわけではないらしい。
落語の演目については書くことがあまりないものの、なかなか含蓄に溢れたいい内容でした。
初天神
初天神といっても、小夏が助六に団子を貰うシーンで、「舐めないで、初天神じゃないんだから」と言っているだけ。
小夏が「初天神」という前に、「初天神みたいだ」と思った方、私から褒めて差し上げます。
ちなみに、うちの息子も「初天神みたいだ」と思ったそうである
樋口先生の書いている「新作落語」の正体がやっとわかった。
古典落語の世界を再現する噺で、その目的・方向性は、古典落語のレパートリーを増やしていくものである。だから、最初から古典落語になることを狙っている。
山田洋二監督の「真二つ」「頓馬の医者」などが近いだろう。
先代三笑亭夢丸師が募集していた新作落語もそう。
これらも確かに立派な「新作落語」であるが、逆に「新作落語とはこういうものを指す」という関係にはないので念のため。
樋口先生の作品のタイトル。
- たぬきぐに
- 与太郎包丁
- 時間風呂
- 三文芝居
既存の古典落語にありそうなものばかりなのはまあいいとして、なんだか盗作っぽい。
「三文芝居」には、きっと、泥棒の親玉と、乞食の娘と、泥棒を裏切る花魁が出てくるに違いない。花魁の裏切りでお奉行さまに捉えられる泥棒が、大岡裁きで恩赦になるという噺だ。たぶん。
樋口先生の書いた新作落語に興味を示さず、「女の人がやる落語はないのか」と訊く助六。小夏を念頭に置いている。
世間では、古典落語は男目線で作られているので女流噺家は掛けづらいなどとよくいう。
個人的には全然こうは思っていなくて、例えばNHK新人大賞で聴いた春風亭ぴっかり☆さんの「湯屋番」には感心させられた。
要は演出、つまり素材の料理法次第であり、それが男女問わず噺家さんの腕の見せどころだと思う。ともかく、「女に古典落語は難しい」という俗説はまだまだ根強い。
そうした中で、確かに「古典が難しければ新作で」と意気込み、女目線の面白い新作落語を多数送り出した桂あやめ師匠などがいる。
物語は、そういう現実世界の女流噺家の歴史を踏まえている。
樋口先生は助六に強く新作落語を勧めるが、師匠に嫌われたくないので新作は掛けないという助六。
そんなことじゃ師匠は越えられないと先生に言われるが、助六、師匠の背中を見ているのが一番好きだという。
別々の道を、同じ方向を向いて少し後ろを歩いていく。師匠と弟子とは同志。師匠を越えちまったら、師匠の落語は愛せない。
「弟子は師匠を越えなくていい」
そうなのだ。師匠を越えられる人など、ほんのひと握りである。
自分の心酔する師匠の下につくのだから、越えようなんて思わなくていいのである。
噺家さんの世界そのものが好きな私は、こういう場面でグッときます。
ただ、弟子が新作をやるのを嫌がる師匠、今でもいるだろうか。
というより、そもそも樋口先生の作る落語は「擬古典落語」とでもいうべきものであって、世界観は古典落語と同一のはずである。「新作嫌い」だからといって毛嫌いするようなものにも思えないのだけど。
ただいずれにせよ、「新作を嫌う」という価値観を師匠が持っている場合において、弟子があえてそれに逆らうようだと、師匠のほうは確かに嫌だろうと思う。
前回、八雲師匠が助六を「笑わせるか泣かせるか、それしかない。芸に芯がない」と評していた。
このフレーズが、師匠と小夏との和解の伏線となっていたのは驚き。
「もうこの気持ちに名前なんかつけられない」と感極まる小夏。
「憎んだり泣いたり甘えたりせわしないね。落語みたいだ」と師匠。
ちなみに、師匠は「みよ吉と心中しようとしたが、身代わりに助六が死んでくれ、あたしは死に損なった」と言っているが、これは師匠の作ったストーリーのほうだ。
小夏に嘘を語るうち、師匠は嘘のストーリーのほうを自分の中でも選択したように思える。
野ざらし
この物語において、先代助六から小夏を通じ、当代と信之助坊ちゃんにも受け継がれる、ファミリーの象徴「野ざらし」。
新たにメンバーも増える、家族の幸せの象徴である「野ざらし」を小夏のためにラジオで掛ける助六。それを聴く、八雲師匠を含めた家族一同。
サイサイ節をうなる信ちゃん。
「野ざらし」、妄想がキツすぎて近年客にウケなくなっている噺の筆頭とされているが、いかにも落語らしい噺。
これを機に現実世界で流行って欲しいなあ。
同じく妄想のキツい「湯屋番」もウケるようになってきているし、粗忽キャラのえげつない「堀の内」も最近よく見かけるようになっている。
「野ざらし」も必ず復活するはず。
三度めの死神、先代助六に会う八雲師匠。小夏と和解した以上、もはや生きている必要がなくなったのであろうか。