黒門亭2(柳家小ゑん「燃えよジジババ」)

またしても柳家小ゑん師のネタ出しがあり、「黒門亭」に出向いてまいりました。
この日も満員札止め。30分前に行ったらもう開場していて、行列の最後で入場しました。

彦星  /  子ほめ
伊織  /  狸札
小せん /  夜鷹の野ざらし
(仲入り)
小里ん / 碁泥
小ゑん / 燃えよジジババ(ネタ出し)

この日は、小ゑん師以外にも、思わず足を運びたくなるラインナップ。
小せん師に小里ん師、いいですな。揃ってトリオ・ザ・ヤナギヤという感じ。
この3人だけで柳家を語るなと言われそうだが、語っても別にいいじゃないか。

今日は頭から順番に。池袋で見つけた前座、林家彦星さんからスタート。
ひと月前に聴いた高座は、棒読みとつっかえつつの、いまどき珍しいヘタクソ振り。逆に、すごく嬉しくなってしまった。
それから1か月、急激に進歩している。嬉しいような残念なような。
そして、前座なのにずいぶんと噺を工夫している。「子ほめ」はとにかく前座でやたら聴く噺であるが、どこでも聴いたことのないクスグリがずいぶんと入っていた。
語り口のほうは相変わらず棒読みなのだけど、妙に「間」がいい。
聴いたことあります? 棒読みなのに間のいい落語。嘘みたいなそんな落語。
この人、すでに「自分で工夫して喋る」という肚を持っているようだ。セリフが出てこないこともあるが、それは丸暗記したセリフを吐き出すのではなく、自分の言葉で語ろうとしているからなのではないかという気がする。
落研でもって、「噺家っぽい語り口」だけマスターしてきた前座さんよりずっといい。これはひょっとするかもと思った。
将来、出世した彦星さんのことを、「俺はさ、高座に上がりたての頃に聴いたんだよ。びっくりするくらいヘタクソでさあ、呆れたんだけど。でも、そのときから肚が据わってたんだ。大物になると思ったね」と言って自慢できそうだ。
しないけどね。

次が二ツ目、強烈ななで肩が印象的な三遊亭伊織さん。カバン掛けても落ちそうだ。
昨秋黒門亭で聴いた覚えがあるが、覚えているのは若侍のようなカッコイイ名前だけ。噺の内容も、なで肩の印象もまったく思い出せない。
しかし、今日はちゃんとこちらに引っかかってくる噺を掛けていた。
大師匠、円歌師宅に掃除をしにいくというマクラが面白かった。孫弟子の前で、おかみさんにいたずらをするかわいい大師匠。
円歌師逝去の報道はこの日から間もなくのことでした。合掌。
さすが時間の長い黒門亭らしく、たぬきの子供を助けるところから始まる長いバージョンの楽しい「狸札」。

「狸札」に限らず、寄席で普通に掛かる短いバージョンの噺は決して嫌いではない。コンパクトにまとまるのも進化の一種。
でも、たまに長いバージョンを聴いておくのも決して悪いものではない。なくてもいい部分も、本当になくてもいいわけではない。
落語の世界観を拡大してくれるシーンは楽しい。

柳家小せん「夜鷹の野ざらし」

次に、魅惑のほほえみで登場、柳家小せん師。
「釣り」のマクラから「野ざらし」へ。
「昭和元禄落語心中」で大いにフィーチャーされた「野ざらし」、これから流行るのかも知れないが、まだそれほど耳にしていない。
小せん師、さすがノドがよく「サイサイ節」を見事に唄い上げる。
小せん師が中手を欲しがらない噺家さんであることは知っているが、その見事な唄いっぷりに思わず拍手したくなる。だが、「サイサイ節」で拍手すると噺が壊れてしまいかねないので我慢する。
黒門亭の客は、誰も拍手はしなかった。

小せん師、噺によってはオリジナルのギャグをちょっと入れてくるが、「野ざらし」に入れるのは昔ながらのクスグリだけだ。これが実に気持ちがいい。
小せん師が、誰もが知っている噺を語ると、語りの裏で、先人たちの培ったリズムが響いてくる。いわばドラムとベースの響きが。
だが、その聴こえてくるリズムを、小せん師は忠実には踏まない。ちょっとずらしてくるのだ。
噺に刻み込まれたリズムを、ちょっとだけ裏切ってみせる。このグルーヴ感のすばらしいこと。
こうした噺には、リズムを損ないかねないオリジナルギャグは不要である。
落語の工夫は、クスグリやストーリーをいじるだけではない。リズムも工夫ができるのだ。

だが、そんな「俺はわかってるぜ」的なファン心理すらも、師は軽々とよけて進んでいく気がする。きっと野暮なのが嫌いなのだ。
淡々としている小せん師、しかし好きなだけ深掘りできる落語。ご本人は深掘りして欲しくなさそうだが。
理屈はともかく、小せん師の落語はひたすら心身に気持ちよく響く。楽しい噺の世界に入って、八っつぁんと一緒に遊びたくなるものな。

八っつぁんの妄想を軸に噺はどんどん進む。時間の長い黒門亭だから、途中で切ってしまうことはなさそうだと思っていたら、幇間が出てこないで、「春を販売する商売」夜鷹が出てくる。
「野ざらし」をヒントに書かれた小説のアイディアを、小せん師が落語のほうにフィードバックしたものだという。
よく知っている噺を、シンコペーションをつけたリズムで楽しく聴いていたところへ、知らない噺が接ぎ木されている。おかしな、不思議な感覚だが、決して悪くない。
そもそも、途中で切られてしまうだけあって、「野ざらし」の幇間の場面はそれほど楽しいものではない。
老けた夜鷹が幽霊に化けて嫁いでやろうと企むストーリーの方がよほど楽しい。
しかし、よくできたストーリーだ。元の「野ざらし」にちゃんと入っている、八っつぁんが壁に開けた穴を利用して噺を膨らますところが見事である。
柳家三三師の改作(怪作)「元犬」を連想した。
よく知っている落語の世界、よく知っているがゆえに楽しいということが確かにあるが、決してそれだけでは終わらない。
落語もまだまだ進化していく。実に楽しいですね。

小せん師、私のホームグラウンド池袋で、5月下席のトリだそうだ。その前に鈴本の中席夜席のトリも務める。20日間連続の主任。数日休演もあるかもしれないが、お忙しくていいですね。
寄席の流れを支える中継ぎエース的な魅力漂う小せん師だが、トリ、つまりストッパーを務める。
ぜひ行かなくちゃと思っている。

柳家小里ん「碁泥」

仲入りを挟み、柳家小里ん師。高座をお見かけするのは久々である。
映像でしか拝見したことのない先代小さん師のたたずまいを、最もよく伝えていらっしゃる噺家さんだと思う。
といって、「小さんは亡くなったから小里んで我慢」というような、コピーの師匠ではもちろんないとも思う。
それでも、高座で動じない腰の据わった構えは、いい意味で師匠譲りなのではないか。

若い噺家さんはやらなくなった昔ふうの入り方。客に対して雑談を語り掛ける語り口ではなく、碁・将棋の定番マクラから「碁泥」へ。
「王様が持ち駒にある」「五目並べだと思って口を出す」という、定番中の定番マクラ。
このマクラでもって、黒門亭のすれたファンを大笑いさせるのだから、まったく超絶技巧である。
胆力の際立つ小里ん師が、ふっと面白いことを言うと爆笑である。

先代小さんの「碁泥」も聴いてみた。
小里ん師が黒門亭で掛けた「碁泥」は、小さんのものにだいたい一緒だ。しかし、受けた印象は結構違う。
音源だけ聴いている先代小さんと、ライブで拝見している小里ん師、その違いはある。ライブならではの高揚感が大きく寄与していることもある。
ともかく、師匠とほぼ同じ噺でも、ちゃんと楽しませてくれる人がいるのだ。それは、とても嬉しいことではないですか。逆もたくさんあるのだから。

「碁泥」は、泥棒ものの中ではあまり聴かない噺。
泥棒ものというより、碁将棋ものだろう。そんな分類があるか知らないけど。
私は碁を習っていたので、「泥棒が出てきて勝負に口を出す」というナンセンスストーリー、熱中するとこんなこともありそうに思え、より楽しい。
勝負に熱中していて、相手の発言に頭の隅っこだけ働かせて答えていると、本当に「泥棒さん、よく来たね」なんて言いそうだもの。
この噺を覚えるためには、碁も覚える必要がありそうだ。
勝負事として将棋でもいいのだけど、相手と真っ向から張り合う将棋と比べ、囲碁というもの、対戦相手との調和を重んじる点が大きく異なるのである。だから、「待った待たない」で喧嘩になる「笠碁」より、「碁泥」のほうが碁の世界には似つかわしい。
そうすると、若い噺家さんにはハードルが高いかも。「締め込み」やってるほうがドラマチックで得だろうし。

話がそれた。
とにかく、隅々まで楽しさ溢れる、たまらない「碁泥」でありました。
それにしても、小里ん師であるとか、柳亭小燕枝師であるとか、一九師であるとか、いい味のベテラン噺家さんががんばっているので柳家は楽しいし、それが多数派の落語協会も楽しい。
当然、落語というものも楽しい。

小里ん師が聴き手を務めている、私のバイブル「五代目小さん芸語録」。
ご一読を強く強くお勧めするものです。読むと落語の楽しみ方が変わります。

柳家小ゑん「燃えよジジババ」

保守を装いつつ結構アヴァンギャルドな落語を聴かせる小せん師、そして真の保守本流、小里ん師を楽しく味わい、大満足。
小里ん師の「碁泥」、疲れないサラッとした落語であり、トリの小ゑん師を聴くにあたって余力十分だ。

小せん師は、小ゑん師のファンを前にどうしようか悩んでいるふうもあったのだが、小ゑん師のファンというのは古典落語は普通に好きな人たちなのではないかな。少なくとも私はそうだけど。
小ゑん師の噺には、古典・新作という分類の前に、まず「落語」を感じる。
一方、「落語」の世界観を感じない、コントのような新作というものも世にはあるのだ。コントだったら価値が低いというわけではないけれど、私は「落語」が好きだ。

ネタ出しの「燃えよジジババ」。三遊亭円丈作。
小ゑん師のツイッターを読んでいると、「突き抜ければ成功」の噺とのこと。ただ、寄席でやる勇気はないそうだ。

聴き終えて大満足であったが、この噺は明白に円丈ワールドに属していると思った。小ゑん的世界にはまだちょっと馴染んでいないかも。
火葬場でもって隣り合った家族どうしが、どちらの老人が早く焼きあがるか、葬儀費用を賭けるというくだらない噺。「くだらない」はもちろん最高の褒め言葉。
片方のばあさんの遺体は、実は事故で重油やガソリンまみれである。方やじいさんの遺体は、花火が仕込んである。
なぜ焼き上がりの速さを競い、賭ける必要があるか。それが楽しいから。
「根底には江戸っ子のシャレがあるのだ」と説明できてできなくはない。そのように理解する客もいるかもしれない。
だが、円丈ワールドにおいては、「楽しいから」で話を進めてしまえるのである。「どういう背景があってこうなるのか」は説明不要だ。古典落語世界観との完全な断絶。しかしそれでも、落語らしい世界であり、コント的世界観とは異なる。
人の死を扱っているからといって、別にブラックユーモアというわけでもない。そのように感じる人もいるだろうが。
その実質は、ひたすらナンセンス。

一方、小ゑんワールドは、八っつぁんご隠居さんの古典落語世界観を、最初からやんわり取り込んでいる。この点、円丈ワールドと大きく異なる。
小ゑん師が「寄席ではできない」というのはこのあたりにも原因があるのでは。
古典落語のエッセンスで噺をくるんでしまって、なんとなく賭けを納得させる方法がないだろうか? それでさらに面白くなるかというと微妙だけど・・・

小ゑん師の語りの裏に円丈師の語りが聴こえてきた。円丈師でも「燃えよジジババ」は聴いていないのに。
小ゑん師と円丈師の語りとアクションが、サラウンドで聴こえ、3Dで見えてきて、倍楽しかったです。

黒門亭は最高です。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。