桂小春團治

おかげさまで、仕事にかこつけて外出する機会が増え、最近はちょこちょこ寄席など出掛けている。
あとは上方落語が聴きたいなあと思うのだが、なかなかチャンスがない。
天満天神繁昌亭にも行きたいのだけどまた行けていない。新たに神戸にもできるそうだが。

四代目桂春團治襲名が決まって上方はおめでたムードのようだ。
東京にいると、この一門のイメージはあまり持てない。桂春之輔師についてもそれほど知らない。
松竹芸能の発信力のモンダイであろうか。
ともかくも、大きな名前の襲名は、時機を逃すと止め名になってしまう。どんどん継いだらいいのではないか。
特に上方は、真打昇進がないので、盛り上げるためにも襲名時披露は必要だ。
さんざん揉めた笑福亭松鶴の名も、今後どうなるのであろうか。

今日は、春團治一門から新作落語の雄、桂小春團治師匠を。
兄弟子の春之輔師が春團治になってしまうと、弟弟子が「小春團治」ではちょっとすわりが悪い。
このようなすわりの悪い例としては、東京では「円楽・小円楽」「文治・小文治」がある。後者の方は、もともと別系統の名前が一緒の一門になったものだからちょっと事情は異なるけど。

小春團治師、東京のTVによく出るような人ではないが、「柳家喬太郎のようこそ芸賓館」にたびたび登場されていた。
インテリジェンス溢れるトークともども、大事に取ってある。
こんなに面白く知性に満ちた噺家さん、もっともっと注目されないとおかしいと思う。

「ようこそ芸賓館」に出られたとき、小春團治師、こんな含蓄のあるコメントを残されている。

  • 新作は50作持っている。人の作った噺もある。人の作った噺は、自分と発想が違うので、リフレッシュになる。
  • アイディアの作り方。思いついたフレーズを箇条書きにして置いておく。アイディアがひとつの噺にはならず、別の噺の一エピソードになる場合もある。
  • 「葬儀屋さんの口調が抜けずに転職したらどうなるだろう」という発想で「職業病」ができた。葬儀屋と最も離れているのが、明るい商売(ファミレス)。
  • 脱獄物を病院に置き換えたのが「アルカトラズ病院」。囚人仲間にいる「調達屋」など、ステレオタイプのキャラクターを使う。
  • キャラクターが多いと話に厚みが出るが、落語の場合はわかりにくくなってしまう。落語には、「声色が使えない」という制限があるから。強力な個性をあてがってやれば、誰が喋っているかがわかる。はっきりしたキャラクターを登場させる。
  • 噺を作るために人間観察はしていないが、家の中は観察する。それが案外、一般的な「あるあるギャグ」になる。
  • 冷蔵庫には、食べ物以外もたくさん入っている。大阪では、豚まんの辛子がやたら冷蔵庫に、卵置きの横に入っている。

聴き手の喬太郎師が、仕事を忘れてファンになってしまっている感じなのがよかった。

冷蔵庫哀詩

桂小春團治師匠の、1枚だけ出ているDVDを拝見する。「松竹特選落語シリーズ」の「壱」である。
ちなみに、「弐」の笑福亭三喬師のDVDも視たがこれも絶品であった。

演目は、以下のとおり。

  • 冷蔵庫哀詩
  • 皿屋敷
  • アーバン紙芝居

新作2作、師匠・春團治の持ちネタ1作といういいバランス。

「ようこそ芸賓館」で、数本師の新作が流れたが、「冷蔵庫哀詩」は、初見である。DVDで視られてとても嬉しい。
「アーバン紙芝居」は、これも師匠・春團治十八番「いかけや」の改作である。こちらも、TVより長いバージョンでやはり嬉しい。

古典落語「皿屋敷」ももちろん素晴らしいが、それに入る前、「冷蔵庫哀詩」の家電に関するマクラからも、古典落語がまず達者な噺家さんであることがうかがえる。
なんてことないネタでも、間が絶妙である。
上方でも東京でも、マクラの上手い人はみな、客に対峙する姿勢がすばらしい。肚が据わっていて、強靭な足腰をお持ちである。
小春團治師、DVDから感じるくらいだから、生の高座で客のハートを掴む力は相当に強いものと思われる。
客を高揚させる官能的な声の持ち主でもある。
客は年寄りが多いようだが、ハートをわしづかみにされた客は、冷蔵庫の中の食材たちの物語にすんなりついていく。

古典・新作の違いはあるが、東京の円楽党、三遊亭竜楽師とスタイルが似ている気がする。
小春團治師も竜楽師も、「知る人ぞ知る」噺家である。そして、活躍の場を海外に求めている。
海外で大いに活躍する分、国内の評価が残念なことに、ますます微妙なものとなる。

「冷蔵庫哀詩」は、冷蔵庫の中の食材・調味料たちを擬人化した物語。
冷蔵庫の食材たちが、互いに喧嘩をし、見栄を張り、そして恋をする。
進行役は、安売りのときにまとめ買いされた業務用、「マヨネーズのキューピーさん」と、「ケチャップのカゴメ君」。
家族に存在を忘れ去られた、未開封賞味期限切れの「ほたるいか沖漬け」が、冷蔵庫のヌシとして君臨している。
柳家小ゑん師の代表作「ぐつぐつ」を思い起こさせる。
「ぐつぐつ」が落語界に与えた影響は計り知れない。風の噂では、上方でも「ぐつぐつ」結構かかるようだ。
しかし、「冷蔵庫哀詩」も「ぐつぐつ」に負けていない作品だ。逆に、東京の噺家さんにもやってもらいたい。
「ぐつぐつ」と違うのは、噺の中に現実世界は少ししか登場しないこと。ただ、冷蔵庫の中の会話から、遠景で家庭の様子が描かれるところが、古典落語の技法を連想させていい。
古典落語には、直接登場しないで活躍する人物が結構いる。「花見小僧」の婆やとか。

冷蔵庫のヌシ、お土産にもらったあと家族に忘れ去られた「ほたるいか沖漬け」。
このキャラ造型が上方落語の「饅頭こわい」などに出てくる「おやっさん」そのものである。
若い者の面倒見がよく、押しだしのいいおやっさん。古典落語の好きな人なら思わずニヤっとしてしまう。
そして、進行役のマヨネーズとケチャップは、無名の若いもんである。おなじみの喜六・清八コンビほどはっきりしたキャラ造型ではない、こんなキャラもよく落語に出てくる。

新作落語の世界観にもいろいろあるが、今主流なのは、古典落語と共通した世界観だろう。
「ぐつぐつ」の柳家小ゑん師など典型的だが、三遊亭白鳥師などもそう。
春風亭百栄師などは、古典落語も含め、ある特定の体系を新作に移し替えてくる。

上方の新作落語の主流は、どうもそうでない気がする。
新作をやる人は、古典落語を切り離しているような気がする。両方やる桂文珍師の新作でも、そんな感じだ。
東京では、寄席の歴史が長いからではないだろうか。落語を知らずに入ってきた白鳥師でも、古典落語の影響をどっぷり受けるのだ。
一方上方では、寄席もできたが、他の演芸に混じって劇場で掛ける歴史が長かったから、「お笑い」全般の影響のほうが強いのではないか。
掘り下げの乏しい仮説ですが。
ともかくそうだとして、桂小春團治師の新作落語は、東京の作り方に近いと思う。
東京では、いっそう受け入れられると思うのだが。

冷蔵庫の新入り、「サーロイン黒毛和牛」が高級食材であることを鼻にかけ、威張っている。
干物や納豆の臭いが移ったら高級食材が台なしだと、他の食材を馬鹿にする。
これが気障なキャラで、東京弁なのが面白い。
上方落語では、しばしば東京弁・江戸弁が効果的に使われる。「江戸荒物」などという、東京ことばがテーマの噺もあるが、そうでなくても、ちょっとしたところで江戸っ子がよく出てくる。
「三十石」で、「幡随院長兵衛」を名乗るニセ江戸っ子がでてきたりとか。
この新作も、そうした伝統を引き継いでいるのだ。
しかし黒毛和牛、実はオージービーフであることがばれてしまい、「俺だってサーロインずら」と急に訛りだす。

そしてクライマックスは、プッチンプリンちゃんとハーゲンダッツアイスとの恋物語。
熱い思いを語るハーゲンダッツに対し、高級アイスと、自分のようなおやつでは到底釣り合わないという、かわいこちゃんのプッチンプリン。
そして、「あなたとは住む世界が違うんです」。
要は冷蔵庫と冷凍庫だからなのだけど。
場面が変わり、ハッピーエンドとして噺が終わるのがうまい作り。これもやっぱり古典落語っぽい。

前番組の「ようこそ芸賓館」ではたびたびお呼びしていたのに、なぜ「イレブン寄席」では小春團治師を呼ばないのだろう。

アーバン紙芝居

桂小春團治師の噺、続けて「アーバン紙芝居」を聴く。

今どきの子供たちに公園で紙芝居を聴かせる、脱サラした男。

興味を持ってくれるのはいいのだが、紙芝居屋の商売に対して「キャッチセールスちゃうか」「マルチ商法ちゃうか」という子供たち。
やたら法律に詳しい弁護士の息子は、お菓子の支払にクレジットカードを出す。
舌の回らぬ小さい子とは、話が噛み合わない。おうち帰ってお菓子代取ってきなさいというと、「おうち帰って、知らんおっちゃんの靴あったらおうち入れへんの」。
さらに、生意気な中学生まで出てきて、紙芝居の後ろに廻って勝手にエロ小説を被せたり、紙芝居はむちゃくちゃ。

噺の骨格は「いかけや」なのだが、古典落語「いかけや」の子供たちは最初から悪さをしようと余念のない連中である。
この構造は間違いなくあるが、「アーバン紙芝居」では、「コミュニケーションギャップ」に、より重きが置かれている。コミュニケーションギャップ、つまり話が噛み合わないおかしさは、落語の普遍的なテーマである。
「近頃の子供は、昔の遊びも紙芝居もわからない」というのがテーマだけども、そこに風刺性はない。
子供たちのこともわからないのに脱サラして紙芝居屋になる男に、勝手に風刺を感じる聴き手もいるかもしれないけど。

子供にサービスしようと、あの手この手で知恵を絞る紙芝居屋だが、古臭いクイズを出しても子供たちにはまったく通用しない。
「おならをしない電化製品はなーんだ」
「ヒントとして、おならをする電化製品を教えてください」
「理屈はええねん。とんちやがな」

「黄金バット」を熱演しても、子供たちは主人公黄金バットを「悪そうな奴やな」とぼろくそ。
小さな子供は、紙芝居を観ずに紙芝居屋の顔をじいっと見ている。
熱演しても子どもたちを引き込めない紙芝居屋に、噺のウケない噺家さんの姿が二重映しになるのである。
小春團治師にももちろん、下積み時代に噺が蹴られた経験があるだろう。ウケないなら仕方ないが、落語自体がポカンという客だっていただろう。今だっているはず。
客の問題は確かにあって、子供を登場人物に据えるとその構図はわかりやすい。
だが、話が通じないのは相手が子供だからというだけではなく、語り手の腕の問題が実は大きいのだ。
「話芸」というものの本質が、笑いの中にしっかり描かれている。

小春團治師、「ようこそ芸賓館」で、落語において「個性のはっきりした登場人物を登場させる」ことを語っていらした。
「冷蔵庫哀詩」もそうだが、小春團治師の新作では、登場人物が多くても「誰が喋っているかわからない」ということはない。
決して声色など使わず、個性をフルに発揮してキャラクターを描ききる。
特に、弁護士の息子で、私立に通う理屈っぽい小学生がいい。

いずれまた、深く楽しい小春團治師の噺を取り上げたいと思います。その前に、高座を生で拝見したいけど。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。