金曜日は歌舞伎座に行ってきた。
ネタにする気はなかったのだけど、落語絡みで拾えましたのでこれについて。
歌舞伎座は相変わらず、平日から大混雑。外国人観光客も多い。
貧乏人の私にも、幕見は優しい。
「團菊祭五月大歌舞伎」。昼の部の「義経千本桜 吉野山」と「魚屋宗五郎」を通しで観る。
立ち見を予告されたが、座れた。
前の3階席に、体がでかいくせに前傾姿勢で観てる輩がいて参りましたが。
芝居はいいですね、女性客が多くて華やかで。
それに比べて寄席は・・・まあいいや。私もその雰囲気をつくるひとりだもの。
落語も浅草や新宿、2階席のある寄席で「幕見」をやってみたらどうだろう。
「一之輔が出る」というので、その高座だけ超満員になったりしてね。
やっぱりダメですね。
歌舞伎に関しては、純粋な娯楽として楽しみつくすところまで行きついておらず、まだまだ「学習」という側面が強い。
なんのために学習するのか、というと、やはり最終的には落語のためだと思う。
落語の芝居噺を聴くときに、原典が丸っきりわからないのも寂しいではないですか。
落語のほうも、「古典芸能として日本人なんだから一度聴いてみなきゃ」と捉えつつ、そのきっかけがないという人はたくさんいると思う。
いざ寄席に通うようになると、これがびっくりするほど敷居の低いスポットなわけだけど。
だから「吉野山」は、上方落語「猫の忠信」を楽しむために観る。氷の羊羹。
芝居を知らなきゃ「猫の忠信」は楽しめないのかというと、そんなこともないけど、でもどこか寂しいものがある。
東京では、「猫忠」という縮めた演題になるが、聴いたことはない。まあ、やはり上方の噺だろう。
海老蔵の「吉野山」、踊りを楽しんだけども、予習していかなかったのでストーリー展開がまるでわからない。
義太夫は聞き取れないし。
そのうちリベンジします。
それに比べ、世話物は楽だ。セリフが100%理解できるのはありがたい。
世話物「魚屋宗五郎」を楽しませてもらった。
菊五郎の宗五郎が、妹の死の真相を知り、止めていた酒をグビグビ呑みながら酔っぱらっていく場面、これを楽しむ感覚は、落語のそれとほぼ一致している。
歌舞伎はお上品で、落語は庶民的。そういうことになっているけども、広い歌舞伎の世界には、ちゃんと落語と共通する楽しみも用意されている。逆もしかり。
だから両方楽しみたくなる。
でも、両方詳しいという人は実のところなかなかいないようだ。
Yahoo知恵袋などに、「古典芸能」全般に関する質問が投稿されると、「私は落語のほうはわかりませんが」と断って、歌舞伎について回答する人がよくいる。
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寺島しのぶさんの、可愛い4歳の坊やが小僧さんで出ていた。これに関するブログ記事も多かったですね。
ああいう、「血のつながり」をストレートに喜ぶというのが歌舞伎のファンならではだ。
梨園においてたびたび発生する隠し子騒動など、いい悪いではなく「そういうものだ」と思うことのできる人たちが歌舞伎座に押しかけている。
落語のほうも血のつながりが強いと勝手に思い込む人が多いけど、落語のほうは、下手だとむしろ反発が強い。
血のつながりの弱い世界には、隠し子騒動もない。
そう思うと、いまだに下手だと認識する落語ファンが多い林家正蔵師匠は、実はすでに奇跡的なレベルの成功を収めている。
さて「魚屋宗五郎」、笑いを多数含んだ人情噺という趣である。歌舞伎がすべてそうだというのではないけれど、この演目には、間違いなく古典落語と共通する世界観がある。
もう止めておけと言われるのを盗み呑みして宗五郎が酔っ払っていく所作はやたら楽しい。もっと笑い声があっていいんじゃないかと思うのだが、歌舞伎座の客は笑わない。
目的の違いであろう。歌舞伎のお客は、笑いには来ていない。笑いはあくまでもちょっとしたスパイス。
この演目に関して言えば、大笑いしていいんじゃないかと思うのだけど、あたしゃちょっとアウェイだからな。
日本人たるもの、笑うときにも空気を読まねばならない。落語だって、空気を読まない笑い声は高座の妨げになるものだ。
その舞台を楽しみながら、頭の隅で考える。
落語と世界観を共通する「魚屋宗五郎」は、落語になるか。どうやってもならない。
いっぽう、落語の世界で、似た噺というと「妾馬」だ。めかうまというタイトルは噺と合っていないので、「八五郎出世」という演題のほうが好きだが。
「妾馬」のほうはどうして芝居にならないのだろうと、頭の隅っこで考えていた。
帰って調べたら、芝居になったことはあるらしい。ただウケなかったようである。
ともかくも、「魚屋宗五郎」と「妾馬」の違いが、すなわち歌舞伎と落語の違いなのだ。そんなことをぼんやり考えていた。
素面では、権力の横暴にじっとこらえる宗五郎は、妹の死の真相を知って止めていた酒をあおり出す。
ちなみにここには刑法における「原因において自由な行為」の理論が隠れている。
要は、正常な認識のある人間が、「酔っぱらうと心神耗弱になりなにをしでかすかわからない」人間であることを自分で知っていて、あえて酔っぱらうということである。
「酒の力を借りて屋敷に抗議に出向く」宗五郎、酒の力を借りたとしても、やはりしてはいけないことをしている。
「酔っぱらうと暴れる癖のあることを知っている人間があえて酒を呑んだため、やっぱり暴れて自分の大事な人間が疵をつけられた」ら誰でもいやでしょう。
脱線した。
ともかく、呑まずにはいられない、せつない宗五郎。おとこ気のある主人公であるが、酒をアオる段階から、すでにきな臭いものが漂うわけである。
それに比べると、「妾馬」の主人公、我らが八五郎は実に軽い。
この違いを、引き続き考えてみます。
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歌舞伎「魚屋宗五郎」も落語「妾馬」も、身分を越えた交流を描く点では、テーマは共通している。
封建制度の枠組みの中で、人の情に訴えかけるという共通点がある。楽しみかたも非常によく似ている。
物語の背景として、主人公の妹が殿さまの妾になっている点も一緒。妹が、物語の遠景にしか出てこない点も一緒。
ともに「肉親の情」という、普遍的な感情に訴えかける作品だから誰にでも響くけども、客にとっては、妹はリアリティを持ったひとりの人格というわけではない。
客が感情移入するのは、「妹の死を悼み殿さまを恨む」または「妹の懐妊を喜ぶ」兄の姿に対してである。
始めて行く屋敷において、珍妙なやり取りを繰り広げるのは同じだが、「うい奴である」とすべて受け入れられてしまう八五郎と、殿の「すまない」という感情の琴線を揺すぶって頭を下げさせる宗五郎。
この違いは大きいものの、「人情」に訴えかけたという点においては同一だ。
人として、誰でも共通に持つ「情」なのか、権力者にも「情」があったと捉えるのか、人により解釈は違うだろうけども。
時代によっても違うだろう。
話の枠組みをまず、「身分の違い」と狭く捉えてしまいがちだけども、そもそも「立場」の異なる人たちの間に、理解が通じ合ったという点は、どの時代であっても普遍的に人を揺すぶる性質の感情だと思うのである。
最近の缶コーヒーのCMで、休憩中の「営業マン」と「鳶」との間に、お互い語らずして心の交流が生じるというものがあった。
窃盗班のベテラン刑事と、スリとの間に生まれる心の交流とか、いくらでも例はある。
根底には、人の普遍的な感情がある。
「封建世界は辛いな。あんな世界には住みたくないな」とまず思ってしまう人は、古典芸能を楽しむには向いていない。
このブログでもかつて書いたのだけど、「二番煎じ」という噺も、私は「人情噺」だと思っているのだ。
見廻り同心と夜回りをする商店主たち、身分という以前に立場の違う人の間に、ふっと交流が生じる噺だ。
「魚屋宗五郎」について、「権力者である殿さまに頭を下げさせる話」ではあるが、そうだとしか捉えられないのだとすると、たぶん見方が浅い。
文学的感性に欠けていると思う。
殿さまも、ちゃんと人格を持っている。喜怒哀楽、いろんな感情を。誤って人を殺めてしまえば、平然としてはいられない。
「町人を殺してしまった。あきらめてくれ」ではもちろんない。
そんなつまらんテーマの話だったら、すでに滅びているだろう。普遍的な人の感性に訴えるものがあるからこそ、生き延びているのだ。
「妾馬」のほうも、八五郎が士分に取り立てられるかどうか、そんな結末は別にどうでもいいのだ。三太夫さんとの間には生まれなかった交流が、殿との間に生まれたところが大事なのだ、きっと。
八五郎の了見を描くとともに、「妾馬」は心の広い殿さまの了見もちゃんと描いている。
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大変よく似ている両作品。人間の心への働きかけ方も似ている。だが歌舞伎「魚屋宗五郎」は悲劇。落語「妾馬」は喜劇。
といって、「悲劇は芝居になるが、喜劇は芝居にならない」のか。そんなことはもちろんない。落語から芝居になる噺は数多いが、「芝浜」などは喜劇である。
「笑い」が「目的」としてあるかないかは、落語と歌舞伎の大きな違い。
「妾馬」の場合、八五郎の珍妙な行動は、すべて噺の目的にもなっている。
八五郎の、肚のないスカッとした性格も見どころだが、それ以上に「コミュニケーションギャップ」による笑いという性質も大きい。
落語には、「コミュニケーションギャップ」を取り上げた噺が多い。「火焔太鼓」も、「妾馬」と同じく、お屋敷での生活習慣のずれに伴う珍妙なやり取りが取り上げられている。
他にも、「元犬」「百川」「棒鱈」「蒟蒻問答」「金明竹」などなど。
最近当ブログで取り上げたばかりの桂小春團治師の新作「アーバン紙芝居」もこの仲間。
「コミュニケーションギャップ」による笑いは、歌舞伎にはなさそうだ。せいぜいがスパイス。
ただ、歌舞伎全般にも、「コミュニケーションギャップ」自体は存在する。だが、悲劇としてである。
「魚屋宗五郎」においては、殿さまと妾との間に生じたコミュニケーションギャップが悲劇として、話の背景に描かれるのである。
なるほど、「魚屋宗五郎」を落語にするためには、殿さまと妾、または殿さまと宗五郎との「食い違い」の部分に「笑い」の要素が必要になるのである。
これは難しそうだ。
だから落語には、芝居のパロディが多いのだろう。パロディだと、すでに原典との間にズレが生じているので、笑いやすいのである。
逆に、落語の世界の「コミュニケーションギャップのよる笑い」などは、芝居には持っていきづらい。
「妾馬」にも、これを活かした悲劇要素がないと芝居にならないわけだ。
もともと断絶しているコミュニケ―ションがつながっていく、という要素は「魚屋宗五郎」と「妾馬」に共通しているけれども、これだけでは芝居にはもの足りないようだ。
「芝浜」だと、これは意図的に亭主を騙すわけだが、そこにあるのはむしろ悲劇性・ドラマ性。これなら芝居になる。
芝居になっている怪談噺については、最初から芝居の世界に近い。
世間は、悲劇のほうを好む気がする。
サスペンスドラマなど視ていると、「勘違いによる悲劇」が実に多い。
「お互いの大事な人が殺人を犯したと勘違いして、それぞれ自分がやったと自白する」物語なんて定番。
あと、「大事な人が自分を捨てたと勘違いし、絶望のあまり殺してしまう」とか。
まあ、悲劇と喜劇、どっちがどうという気はない。どちらも楽しんだらいいではないか。
この項、見切り発車で始めてしまいましたが、なんとか着地できてよかったです。