池袋演芸場7(柳家小せん「人形買い」)

「神田連雀亭ワンコイン寄席」から丸ノ内線で移動して、私の愛する池袋下席へ。
上席・中席と時間帯が異なっていて、昼の部は午後2時から5時まで。昼夜入れ替えなし。色物は二組だけ。

先月から楽しみにしていた芝居である。
「東京かわら版」割引のない池袋であるが、この日は小せん師匠のチラシでもって、200円引きの1,800円。貧乏人にはありがたい。

市朗  / たらちね
八ゑ馬 / 書割盗人
三語楼 / 胡椒の悔やみ
一琴  / 紋三郎稲荷
ニックス
歌武蔵 / 風呂敷
玉の輔 / お菊の皿(代演) 
(仲入り)
馬るこ / 船徳
小里ん / 真田小僧
小菊
小せん / 人形買い

池袋は私のホームグラウンド。勝手に宣言しているんですけどね。
ここで観る芝居、ずっと大当たりが続いている。先日家族を連れていった、こどもの日の夜席、芸協の芝居は感動ものでした。
ずっとハイレベルの続いた流れからすると、この日は、わりと普通の日だったように思う。
いや、さすがは池袋らしく、つまらない師匠はひとりもいなかったけども。ちゃんと当たりもあった。

鈴々舎八ゑ馬「書割盗人」

トリの小せん師匠のことを書く前に、神田連雀亭からの流れでトップバッター、二ツ目の鈴々舎八ゑ馬さんのことを。
この人、何年振りかわからないくらい久し振り。以前聴いた噺など覚えていないのだけど、各段に上手くなっていて衝撃。
寄席のトップバッターから、本格上方落語が聴けるとは思っていなかった。
東京で上方落語をやる噺家さん、鶴光一門を始め数人いるが、大阪の落語とはどうしてもちょっと違ったものになると思う。好き嫌いとはまったく別の話。
鶴光師の渋い落語は好きだが、落語のスタイル自体、もともとが上方のスタンダードではないし。
スタンダードな上方の古典落語もたまには聴きたいなあと思うその気持ちを、八ゑ馬さんが満足させてくれた。
上方言葉も上手い。あちらの出身だからといって上手くて当然というものじゃない。この日出ている一琴師など、上方言葉が苦手で、噺家になるため東京に出てきたという人だ。
八ゑ馬さん、大阪であちらの噺家さんに混じってやっても、まったく遜色ないだろうと思った。レベルの問題だけでなく、雰囲気に違和感もないだろう。
師匠・馬風は別に上方の噺家ではないし、ネタを教わるのも大変だろうと思うのだが、やはり上方で仕入れてくるのですかね。

ネタ帳には「書割盗人」と書かれるのだと思うが、東京では「だくだく」である。「血がだくだくと出たつもり」の先がちょっとあるくらいで、内容はおおむね同一。
いかにも大阪らしいこってりしたタイトルと、いかにも東京らしいあっさりしたタイトルである。
「だくだく」、流行っているのだろうか。ここひと月半で4回目の遭遇である。巡り合わせはあるにせよ、それまでほとんど寄席で聴かなかったのに。
流行って欲しいネタなのだ。聴く側に洒落っ気と遊びがないと、聴いて楽しい噺ではない。

柳家小せん「人形買い」

さてお目当て、主任の小せん師。
わりと普通の寄席だったこの日を、トリでしっかり締めてくださいました。
ジミハデなこの師匠の、真骨頂。
中継ぎエースが好調ゆえにストッパーを務めるが、日ごろと同じ、スライダーと140km台の速球で強打者をなで斬ったという感じ。
このピッチャー、剛速球やフォークボール、内角を鋭くえぐるシュートなどの派手な決め球は持っていないが、配球と緩急がとにかく丁寧なのだ。
見事なストッパー振りだが、この芝居が済んだらまた中継ぎを地道に努め、寄席をしっかり支えてくださるのだろう。ありがたや。

「人形買い」。この噺、トリネタだとは知らなかった。
寄席用の噺だと思う。ホール落語で出すようなイメージの噺ではない。「落語研究会」ならあるいは出そうだけど。
といって、寄席で聴くのも初めて。たまにTVで入船亭扇遊師匠が短いのを掛けているので、知ってはいるという程度。
たぶん、客のいいときに出すとっておきの噺だと思う。
客がいいというのは、それほど混んでおらず客席がわんわん沸きかえってもいないが、いい噺ならばじっくり聴いてくれそうというとき。
爆笑をとってハネる必要のないときにやる噺なんだと思う。この日の、ぐずついた天気、六分の入りにはぴったり。

噺家さんが、せっかくプロになったのだからと、やりたがりそうな雰囲気の噺でもある。そしてコケて二度とやらないという(想像)。
小せん師匠の場合、無理にウケさせる必要などないので、味のあるこんな噺は向いている。息を詰めて聴くような話ではなくて、リラックスしてふわふわ聴く噺。
五月の節句に合わせた季節ものである。
ちょっと時季が過ぎてしまった。季節を先取りするのは粋だが、せっかくサラったので野暮でもやりたいという小せん師。それに、旧暦だとこの日が皐月の一日。さみだれの時季にぴったりだとこじつけて。
噺家さん、季節ものは、季節前いっぺんサラって虫干しする。関係ない季節は、忘れているからすぐにはできないのである。
季節前にサラって、やる機会がなかったのだろう。鈴本・池袋で20日間連続でトリを取る(鈴本は一日休み)師匠だが、この噺を掛けるシチュエーションはなかったようだ。
季節を先取りするのが粋だというのは、この日出た「船徳」「お菊の皿」あたりによく表れている。

大きな起伏なく進む噺なのだが、でも小せん師がじっくり語り込むと、隅々まで実に楽しい。

  • 「壺算」のような、油断のならない商いの世界
  • 上方落語の丁稚のような、ひねた小僧さん
  • 劇中の講談(太閤記)

など、地味な噺の中に、バラエティに富んだ要素が詰まっている。また、口調がいいから講談も上手いのである。
でもやはり地味な噺なので、たぶん儲からない。難易度の高く、見返りの薄い、コストパフォーマンスの悪そうな噺。
コスパのいい「子ほめ」や「元犬」だけあったらいいというわけじゃない。こんな噺もあるから落語の世界は楽しい。

「人形買い」、落語っていいものだなあとしみじみ感じさせてくれる噺。どんどん楽しくなっていった。
こういう噺が流行るということが、落語の聴き手の成熟を表すと思う。
小せん師、実に控えめな噺家さんだが、落語ファンの虚栄心を思わずくすぐってしまう人でもある。「小せんがわかる俺はすごいぜ」という。
だけど、そんなファンの歪んだ心境自体も、軽々とよけて通っていくような、そんな粋な師匠である。

この席のヒザを務めるのが柳家小菊さん。そのご主人である、吉川潮氏の対談本「待ってました!」は大変面白い。立川流に偏らず、上方も含めた様々な師匠との対談である。
この手の本からは切り捨てられそうな、実力者の三遊亭歌之介師を呼んでくるところもいい。
ただ、この本の中に、さして上手くない噺家が大きな名前を継ぐことを嘆く流れの一環として、「柳家小せん」の名前も小さくなったとつぶやく場面がある。
当ブログにも書いたのだけど、二ツ目、鈴々舎わか馬時代の音源もまた、すでにいいものなのだが。
その後、吉川先生の認識が変わっているといいんですがね。

三遊亭歌武蔵「風呂敷」

比較的地味なこの日であったが、他によかったのが三遊亭歌武蔵師。
例によって「ただいまの協議についてご説明します」から、直前の「ニックス」をいじる。
「姉妹漫才ということですが、姉妹だというだけじゃありません。皆さんご存じないでしょうが、おかまなんですね」。
本場所中なのに相撲のネタは降らず、「縁は異なもの」「だって寒いんだもの」のマクラから「風呂敷」へ。
前座さんの掛けた「たらちね」にツきそうな気が若干するのだが、こんなのもツいているとすると、やる噺がなくなるからまあいいのだろう。

歌武蔵師は、寄席でよくお目にかかる人。
古典落語をみっちり語る得難い師匠で、顔付けされていると安心できる。
この日も、柳家の一門に混じって顔付けされているのは、寄席に欠かせない顔だということ。
角界出身であり、楽しい相撲マクラを振る。得難い個性。
しかし不満があるとすれば、噺の本編に、この人なりの強い個性が感じられないような気がする点である。
歌武蔵師の描く人物は押し出しが強いものの、橘家文蔵師のキャラのように特定のカラーをまとっているわけではない。個性のかたまり、柳家喬太郎師と一緒に会をやっている分だけ、その個性のなさが悪目立ちしてしまう感がちょっとある。
だが、今日の「風呂敷」には心底感動した。
急に個性的な落語に変わったわけではない。先人の積み重ねの先にある従来のスタイルのままで、すでに手垢がついて久しいかもしれないこの噺を、実に面白おかしく語っていたのだ。
「迫力のあるおかみさん」でウケていたあたりがこの師匠の個性ということになるのだろうが、でも、そんな部分にことさらに着目したいのではない。
押し出しの強い兄イもニンが合っているが、それが合う合わないで噺のデキが決まるのでもない。
噺を当たり前に語って、そしてしっかりとウケる。
いいですねえ。プロの腕ですねえ。
「個性」なんて、ウケていれば後からついてくるのだということを証明する落語でありました。

三遊亭歌武蔵師匠、キャリアの長い人だが、歳は若く、まだ50になっていない。
よく考えたら、今脂の乗り切っている世代、「彦いち」「白酒」「兼好」「左龍」といった師匠方と世代は一緒なのだ。
歌武蔵師も、これからまだまだ売れるでしょう。
先日亡くなった圓歌師の弟子から、本格古典派が出てくるというのも面白いものである。

***

この日、「胡椒の悔やみ」という珍しい噺を掛けたのが柳家三語楼師。
聴いたことがない噺だが、タイトルがすぐ浮かんでくるから不思議である。
「くしゃみ講釈」が非常に儲かる噺であるのと比べると、めったに掛からない噺であるのものもよくわかる。「悔やみ」と「ゲラ」という異質なものを組み合わせた秀逸なネタなのに、起伏に乏しい噺。
まあ、小せん師の「人形買い」もそうだが、儲かる噺ばかり掛けられたらつまらない。
珍しい噺は、聴き手の脳を活性化させ、マンネリから救ってくれるからありがたいのだ。

あと、クイツキの鈴々舎馬るこ師について。
自分の真打の披露目が終わったばかりだが、勢いを買われ、兄弟子の芝居のクイツキに抜擢されているのはよくわかる。人気のある人である。
だが、どうもこの人の噺、わからない。この人の追求する「面白さ」に、ついてくる人が大勢いることはよくわかるのだが、私はあまりついていけない。
「つまらない」などといって安易に批判するつもりはない。私の感性に合うか合わないかというだけ。
今日の「船徳」、参詣の二人組を夫婦に替えていて、その夫婦が婿養子で嫁が威張っているという工夫は面白い。そういう工夫はよしとする。
だが、その工夫が噺自体を非常に面白くしているふうには、残念ながら思えなかった。ギャグのためのギャグ。
一之輔師や白酒師の面白古典落語は、ギャグをギャグにとどめず、常識にくさびを打ち込むために用いる姿勢が素晴らしいと思う。
噺とは関係ないけど、馬るこ師、頭にへんな寝グセがついていたのはいただけない。噺家さんは綺麗じゃないと。

さて。
私はメモは一切取らない。自分の記憶メモリに残ったものだけを書く。
最近、ネタ帳披露するようになってしまったのだが、この程度の分量、メモがなくてもすぐ再現できる。
噺家さんがメモを嫌がっているらしいことは、このブログでもよく書いている。
といって、別に「メモは一切取るな」などと言いたいわけではない。演者の入れ替わり時にさっと演目を書くのを咎めたりする気はない。
そんなに他のファンを気にして見ているわけではないけど、今日は前に座った兄ちゃんが書いていた。それも、いちばん嫌らしい書き方。ネタに入った瞬間に当たりを付けて記載するという。「紋三郎さま」というキーワードが出た途端にペンを動かすやつ。白酒師や百栄師のマクラのネタになるやつだ。先日も丈二師が批判していたメモの取り方。
私は「ネタ帳ドレミファドン」と呼んでいる。
噺家さんが嫌がるのはわかるが、噺家でない私、なにが嫌なのか。
「俺はわかったぜ」という思いを、他人に披露したくて仕方ない、その自意識の現れをだ。
まあ、私の「メモは取らない。全部記憶」というのも、「全部覚えてるっていう自慢」「自意識の現れ」なのかもしれない。
だが、客席におけるふるまいに関していえば、私は絶対に野暮ではないはずだ。

尻すぼみ気味に終わります。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。