瀧川鯉朝「あいつのいない朝」

瀧川鯉昇一門という、実に個性的な集団が落語界にある。
鯉昇師匠がまず圧倒的に面白い噺家さんである。そこに集まった弟子たちが実に14人。現代においてはおよそ考えられない大所帯。
辞めた人というのも、いないことはないのだろうが聞いたことがない。よほど居心地がいいらしい。

噺家さんの修業というと、世間のほうも厳しいものを想像し、なぜか勝手にそのような期待もする。
笑点のファンなど特にそうだが、噺家さんに対し、一般人と隔絶された超人性を期待しているらしい。超人として生まれ変わるにあたっては、「厳しい修業」などの通過儀礼を踏まえている必要があるという、勝手なイメージを持っているのだろう。落語のことなど知らないのに。
私は笑点のファンとは違うので、噺家さんに超人性は求めていない。地道にコツコツ、ちゃんとやってきた成果で味が出ている人を多く知っている。
だから、厳しい修業が不可欠でないことも知っている。
実際に緩い一門もあるわけだ。鯉昇一門はまさにそのようだ。

緩い一門は、厳しい一門より質が低いのかというと、どうみても、まったくそういう関係にはない。厳しい修業は、師匠の自己満足であったりもするのだろう。
厳しいだけならいいけど、すぐにクビにする師匠もいる。
柳家小三治師は弟子の半分を辞めさせた。立川談春師など、採ってはクビに、採ってはクビにすることを繰り返している。
そういう一門の、残った噺家が精鋭揃いというならいいのだけど、全然そういう関係にないのはどうしたことか。

緩いほうの筆頭、鯉昇一門、数だけではなくて質もなかなか高い。
まあ、それに関しては異論を持つ人もいそうだけど、偏見にまみれた審美眼をもってしても「数は多いばっかりで質はイマイチ」と断言はできまい。
その一門の惣領弟子が瀧川鯉朝師。
生え抜きではなく、春風亭柳昇の弟子で、師匠の没後鯉昇師に引き取られた人。
このような預かり弟子の場合、師弟関係が名目上のものになっているという場合もしばしばあるが、ここの師弟関係はなかなか強そうだ。
鯉昇師にもまた、入門時の師匠が廃業してしまい、しばらく師匠のいないジプシー生活を送った上でようやく柳昇に引き取ってもらったという経緯がある。それと無関係ではないと思う。
また、一門のカラーは惣領弟子が作るのだという。鯉昇一門について、鯉朝師がカラーを作っている感じもある。

師匠・鯉昇は、新作派の柳昇一門にいながら、古典落語をずっと掛けてきている人である。
鯉昇師自体、ふわふわした落語を掛ける人で、古典・新作という峻別はあまり意味をなさない。
それもあって、弟子はいろいろ。新作しかしない人もいる。当ブログでも取り上げたのだが、今や幻の噺家になってしまった春風亭鯉枝師とか。
売れっ子の二ツ目、「成金」メンバーの鯉八さんも新作派。
鯉朝師は、古典と新作、両方に力を入れている人である。夏に寄席で聴いたときは、「酒の素」なんていう復刻落語を掛けていた。柳家金語楼作だそうだ。
純然たる古典も面白い。喬太郎師のTVで掛けていた「牛ほめ」はなかなかのものだった。与太郎はニンが合うらしい。

そんな鯉朝師匠の新作落語「あいつのいない朝」について。
「あいつのいない朝」の主人公は、薬局の前に置かれたゾウの「サトちゃん」と、カエルの「ケロ」。
人間の知らない、置きものどうしの会話を主にした落語。そこに人間も描かれる。
そうしたアイディアが真骨頂であるが、でもそれだけではない。古典落語にも共通する、仲良く「憎まれ口」を叩き合う姿が描かれ、世界観が立体的になっている。

鯉朝師の、たぶん代表作「あいつのいない朝」。「柳家喬太郎のようこそ芸賓館」でも掛けていた。
今回は、師が一枚だけ出しているCDを聴いている。
惣領弟子らしく、マクラで瀧川一門の名前がいかにいい加減かを語る鯉朝師。「鯉ちゃ」「鯉○」「鯉ん」などという弟弟子たちの名前について。
こういうエピソードから、一門への深い愛を感じるわけである。

大手ドラッグストアの店頭に置かれた「サトちゃん」と、90年、三代続く老舗薬局の店頭の「ケロ」。
CDやTVでは、気を遣って名前を伏せている。本当に気を遣う必要なんかないはずで、名を伏せること自体ギャグになっている。寄席で聴いたことないのだけど、寄席でも伏せてるんじゃないだろうか。
互いを「両生類」「象のくせにオレンジ色」と憎まれ口を叩き合うふたり(二体)。
サトちゃんには、「鼻をなでると男性自身が立派になる」という都市伝説を信じて触りにくるキモオタたちがいる。
憎まれ口を叩き合う、楽しい日常が続くかとおもいきや、老舗薬局の店主は隠居生活に入り、店じまいすることにする。
最終日まで「せいせいするよ」と引き続き憎まれ口をきくサトちゃん。
閉店後、トラックで運ばれていくケロ。
最後の最後で、ケロに向かってサトちゃんは「俺さみしいよ! ひとりになっちゃうよ!」と絶叫する。
「さよなら」と一言だけ残していなくなるケロ。
話し相手がいなくなり、毎日退屈を持て余すサトちゃん。
薬局の跡に、「フライドチキンの白髭のおじさん」や、「舌を出してる洋菓子店の女の子」が来たらいいのになと夢想する毎日。
そんなある日ドラッグストアに、ノベルティのストラップ「ミニサトちゃん」が届く。バイトの子が、サトちゃんの大きな耳に、ミニサトちゃんをつけてあげる。
「俺はお前のお父さんだゾウ」とミニサトちゃんに語り掛けるサトちゃん。
最後に、素敵なハッピーエンドが待っている。
楽しくてせつなくて、笑えて泣ける落語。

新作落語たるもの、世界が突飛であればウケるのか。絶対にそうではない。
主人公がキャラクター人形であろうが、柳家小ゑん師の「ぐつぐつ」のように「おでん」であろうが、桂小春團治師の「冷蔵庫哀詩」のように食材であろうが、描かれるのは結局人間である。
世界を構築するアイディアだけではダメで、そこに「人間」「情景」が描かれていて、はじめて深みが出てくる。
この点、練られてきた古典落語と一緒。
古典落語とあえて別の道を進んできた三遊亭円丈師にしてからが、やはり「人間」を描くことに注力しているのを見ればよくわかる。

新作落語に必要不可欠な要素は「架空世界のリアル」だと、最近とみに思うようになった。まあ、落語だけの話でなくて、フィクション全般に必要な要素なのだけど。
落語の世界が日常から切り離されたものだろうが、日常のすぐ隣にあろうが、その世界の中でのリアリティがないといけない。
サトちゃんとケロとが話をする世界にも、その世界なりのリアリティが必要なのだ。鯉朝師の迫真の語りから、悪友を喪うサトちゃんの心からの嘆きが聴こえてくる。
リアリティから、登場人物の行動原理が浮かび上がってきて、噺が立体的になる。
そしてリアリティを与える技術は、噺家さんの語りによるところも大きい。
サトちゃんのセリフはサトちゃんの肚になって話す。この落語の基本的技術がしっかりしていると、架空の噺から、リアリティが湧いてくるのだ。

作成者: でっち定吉

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